約束の地に留まり続けたイサク【感想・備忘録】創世記(39)—イサクの歴史—

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ここまでの文脈

 創世記の第8のトルドットは、創世記25:19〜35:29で「イサクの歴史」。

 このトルドットの中で、イサクが主役になるのは、今回扱う創世記26章だけである。創世記25章はアブラハムの死とヤコブの紹介、第27章からはヤコブの物語に変わる。イサクは第26章の前ではアブラハムの息子として、第26章の後はヤコブの父として紹介されるにとどまる。

 イサクはどちらかというと受け身であり、ドラマには欠ける人物だった。生涯の殆どをネゲブの砂漠で過ごし、アブラハムヤコブの橋渡しとなった。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の中では最も長寿であり、確かな信仰を持って、アブラハム契約の継承者として生きた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • イサクの時代、再び大きな飢饉が起こり、ゲラルの地に下ったが、ここでイサクは神からアブラハム契約の再確認の啓示を受ける。
  • ゲラルの地で次第に力と富を蓄えたイサクは、ゲラルの王・アビメレクから、出ていくように命じられる。
  • ゲラルの住民から何度も嫌がらせを受けながらも、イサクは神の祝福のもと、新しい地に拠点を構え、乞われてアビメレクと平和条約を結ぶ。

感想・備忘録

 アブラハムは生涯、約束の地にとどまった。飢饉が起きてもアブラハムのようにエジプトまでは下らずに、約束の地の中にあるゲラルまででそれ以上は下らなかった。

 約束の地に留まることは、アブラハム契約において個人的祝福を受けるための土台である。神は「エジプトへ下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。・・・わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する(創26:3)」と言っているからだ。イサクは約束の地に留まり続けた。その結果、「主は彼を祝福され・・・富み、ますます栄えて、非常に裕福になった(創26:12-13)」。

 この約束の地に留まることは、新約時代のクリスチャンにとっては、イエス・キリストを通した契約を信じることと等しい。イエスの十字架の下に留まる、というのは新しい契約を信じその契約条項の中で物事を考え、解釈することだ。そこに留まる限り、イサクが祝福されたように、クリスチャンも神からの祝福に与ることができるはずだ。

 

 また、ゲラルの地で遊牧だけでなく、農業も新たに始めたイサクは上述のように非常に豊かになった時、ゲラルの地の王・アビメレクから、その力を恐れられ、出ていくように命じられる。この「アビメレク」というのは、エジプトの「パロ」のように、この地で使われた王を指す称号である。

 この時、イサクは一切争わずに出ていく。その後も井戸を掘るたびに三度も妨害に遭ったが、その度に争うことはせずに場所を変えていく。神から約束の地の所有権を約束されたイサクが、その地を追われて放浪するのである。

 イサクからしたら、神からの約束があるので、土地の所有権を持っているのは自分だとういう意識はあったのであろうが、その約束が成就されるのは神のタイミングによるということもまた理解していたのであろう。神の時が来たら、必ず自分の土地になるのだという確信を持ちつつ約束の地の中を放浪したというのは、現代のクリスチャンにとっても大いに参考にすることができるだろう。

 実際、アブラハム、イサク、ヤコブはその人生の中で土地の約束が成就するのを見なかった。しかし、イエス福音書の中で語っているように、メシア的王国が成就した際には、彼らは復活して土地の約束の成就に与るのだ。