【感想】創世記(29)—アブラハムの執りなしの祈り—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2009年1月19日)→

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 今回は創世記18:1~33までです。

ここまでの文脈

 神はアブラハムを選んで契約を結び、彼とその子孫を通して全人類を救おうとされた。それがアブラハム契約である。

 契約の際に、神は新しい約束を与え、アブラハムは諸国民の父となり、サラは男の子を生むと言われた。この新しい約束に伴い、アブラムはアブラハムサライはサラとそれぞれ改名した。

 そして、アブラハムアブラハム契約の「しるし」として割礼を実行した。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 3人の旅人(実は神と二人の天使)が、アブラハムとサラに、サラが来年男の子を出産することを告げる。
  • 神が、アブラハムに、ソドムとゴモラへの裁きを啓示する。
  • アブラハムは、ソドムとゴモラが裁きから免れるよう、執り成しの祈りを神に捧げる。

感想・気づき

 ユダヤ教の伝承では、アブラハムが旅人たちをもてなしたのは、彼が割礼を受けて3日目だとされている。まだ、傷が痛むので座ってじっとしていたのだろう。そして、創世記17章と18章は時間的に連続しているということになる。

 創世記18:3で「ご主人」と訳されている語は、ヘブル語の「アドナイ」。これは「わが主」という意味で神を指す言葉である。アブラハムは3人の旅人を見て、その内の1人が神であることに直ちに気がついていた。

 彼は、旅人たちを豪勢な食事でもてなすが、これは創世記第19章のソドムの町の人々の対応とは対照的である。また、これは「日の暑いころ(創18:1)」の出来事であるが、これは正午前後のことである。中東では一日のうちで昼食がメインなので、この時間帯は主たる食事の時間である。

 神と天使は肉体的には食事を取る必要がない。しかし、アブラハムと共に食事を取っているのは、これがヘブル的概念で言うと、「契約の食事」、「親しい交わりの食事」であるからである。このことからも、17章と18章が時間的に連続していることには説得力があるように思われる。

 

 食事の後、神はサラに来年男の子が生まれることを約束するが、サラは老人の自分にはそんなことはあり得ないだろうと思い、心の中で笑ってしまう。神はこのサラの心境をたしなめるが、創世記17:12では同じようにアブラハムが笑って神にたしなめられている。神が直接語りかけてもなお、アブラハムもサラも常識にとらわれて、神の言葉をすぐに信じることができなかった。

 アブラハムでさえ、神の直接の語りかけの言葉を信じられないことがあるのであれば、私たち現代のクリスチャンはどうであろうか。聖書の御言葉をそのまま信じることは非常に困難が伴うのではないだろうか。アブラハムのように、すぐに神がたしなめてくれれば良いが、そのようなこともなく、日常生活の中でなんとなく常識と思われていることにとらわれて、聖書の語っていることを正しく捉えるができているのだろうか。

 

 神は、アブラハムに対して、ソドムとゴモラに対する裁きを啓示するが、その理由が非常に面白く、解説がなければなかなか気がづかない内容だった。

 それは、アブラハム契約により、アブラハムを通して地上の諸国民は祝福されることが約束されていたので、神はアブラハムがソドムとゴモラに対する執り成しの祈りをすることを期待していたからだ。このように、神は「正義と公正を行わせるために彼を知ったのである(創18:19)」。

 そして、アブラハムは神の前に大胆かつ謙遜に祈り、10人の義人がいればその町を滅ぼさないと神に約束させる。この、人間と神との仲介としての執り成しの祈りは、大祭司としての役割である。この役割はその後、モーセに引き継がれ、イエスによって完成する。

 結果的にアブラハムの祈りは叶わず、ソドムとゴモラは神の裁きにより滅ぼされてしまう。しかし、アブラハムの祈りの精神は聞き遂げられ、ロト一家は救われる。このことは私たちの祈りについても当てはまる。祈りは願い通りにならないことも多々あるが、それでもその精神は必ず神は聞き届けてくださっているはずだ。