【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(5)山上の垂訓(1)

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 今回のメッセージはここで聞けます(2007年10月22日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回はマタイの福音書5:1~20までです。

ここまでの文脈

 マタイの福音書第3章では、メシアの先駆者バプテスマヨハネとメシアであるイエスが登場した。4章ではメシアは悪魔からテストを受た。また、宣教活動の戦略が示された。そして、第5章では、有名な「山上の垂訓」が語られる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 「山上の垂訓」で、イエスは「救われるための方法」を語っているのではなく、「メシアによる律法の義の解釈」を語っている。
  • 「律法の義の解釈」に入る前に、まずイエスの弟子に与えられた8つの特徴を説明する。
  • 「パリサイ人の義にまさる義」とは、パリサイ人以上に律法に厳格になることではなく、「イエス神の国の王として来られたメシアである」と信じること。

感想・気づき

 「山上の垂訓」は聖書の中でも非常に有名であり、同時に最も誤解されている箇所だ、と解説されていたがまさにその通りだと思う。

 まず大前提として、これはイエスが弟子たちに語っている(マタイ5:1)ので、すでに救われている人々に対して語っている内容だ。だから、「こうしないと救われないよ」ということではない。日本の文学者でも、この山上の垂訓の内容に感動したものの、どう考えても実践できないので、悩んで心を病んだり、自殺したりした人たちがいるが、今回のメッセージをぜひ聞かせたい。また、メソジストの開祖の一人であるジョン・ウェスレーもこの「山上の垂訓」を非常に重視していたが、彼も守るべき律法として「山上の垂訓」を理解していたようなので、この点は気をつけなければいけないだろう。

 救いについて、聖書では一貫して信仰と恵みによって、一方的に神から与えられるものと理解されている。常に信仰の対象は神で、神からの啓示の内容を信じることで義とされ、救われる。そして、この啓示の内容、つまり信じる内容が時代によって異なる。

 イエスが「山上の垂訓」を語った時点で、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(マタイ4:17)」というのが信じる内容である。イエスはまだ十字架についていないので、この時点では「十字架の福音」はまだない。「天の御国が近づいた」というのがこの時点での福音である。

 この「天の御国」とは、旧約聖書で預言されている、メシアの到来と共にもたらされる神の国のことである。マタイの福音書ユダヤ人向けに書かれているので「神」という言葉を使うのを避けて、代わりに「天」という言葉を使っている。

 パリサイ人は、モーセの律法を厳格に守ることで義を得ることができると考えた。そして、その律法を守るために文字通り数千、数万の口伝律法を増やしていき、それらを厳守しようと努力していた。しかし、律法を守り行うという「人間の業」によっては、義認や救いを得ることは決してできない。律法を完全に守ることは人間には不可能だからだ。

 以上のことから、「パリサイ人の義にまさる義(マタイ5:20)」とは、つまり「イエス神の国の王として来られたメシアである」と信じることである。このことがわかると、「山上の垂訓」の見え方が全く変わってくると思う。今まで何も理解していいなかったんだなと感じる。