【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(21)

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年3月10日)→

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 今回はマタイの福音書第21章です。

ここまでの文脈

 マタイの福音書第21章からイエスの公生涯の最後の1週間が始まる。この1週間はユダヤ教の三大祭りである過越の祭りの期間である。

 過越の祭りは、出エジプトを記念する祭りで、子羊を生贄として捧げる。イエス神の子羊として、十字架で自らを捧げるためにエルサレムに来た。出エジプト12:3〜7に説明があるが、ニサンの月の10日に羊1頭を選り分け、14日まで吟味し、その夜(15日)にほふる。イエスもまた、神の子羊として、5日間吟味された後にほふられる。

今回のメッセージを要約すると

  • エスはニサンの月の10日にエルサレムに入城するが、その過程で登場する「ロバ」、「棕櫚(しゅろ)の葉」、「宮清め」、「いちじく」という4つの象徴は全てイエスの神性と、神の子羊であることの証明である。
  • 祭司長と民の長老たちというサンヘドリンの代表から挑戦を受けるが、これは神の子羊として過ごしの生贄に適しているどうかの吟味である。
  • エスは祭司長たちに対して例え話で、パリサイ的神学を否定し、神の国がこの時代のユダヤ人から取り去られたことを教える。

感想・気づき

 「ロバ」、「棕櫚の葉」、「宮清め」、「いちじく」の4つの出来事がそれぞれ面白かった。

 「ロバ」に乗るのはゼカリヤ9:9の預言の成就。

 群衆が「棕櫚の葉」を振ってイエスの入城を歓迎するのは、イエスをメシアとして歓迎していることを意味する。「棕櫚の葉」を振るのは仮庵の祭りの習慣で「ホサナ」といのも仮庵の祭りの祈りである。群衆はイエスエルサレムに入城したら、直ちに旧約聖書で預言されたメシア的王国が到来すると思い熱狂していた。

 マタイ21:9は詩篇の118篇でハレルヤ詩篇と呼ばれるものの一部で、群衆は旧約聖書の預言を踏まえた上でイエスを歓迎していたことがはっきりとわかる。

 しかし、すでに「赦されない罪」によりこの時代のユダヤ人からは神の国は取り去られていたので、イエスは群衆との認識の差に孤独を感じていたはずだ。また、弟子たちも群衆と同じ認識でいた。

 さらに、「宮清め」はイエスが神殿の所有権を持っていることを主張するために行われた。祭りの捧げものに関する利権が大司祭一家のファミリービジネスになっていることを批判したのだ。

 「いちじく」の木は、イエスラエルの民とパリサイ主義の信仰を指していて、見た目は豊かな葉が茂っているが、「実」がないので、イエスは呪って枯らしてしまった。空腹はイエス人間性を、呪って枯らしたのはイエスの神性を示している。

 そして、いちじくの木はイスラエルの民の運命を象徴している。紀元70年にエルサレムが滅びたのは、イエスに対する不信仰が原因ということだ。

 

 挑戦に対するイエスの答えがどれもラビ的教授法だ、というのも勉強になった。

 「あなたの権威は誰からのものか?」と問われて、「バプテスマのヨハネの権威は?」と、問いに対して問いで答える。また、例え話で間接的に説明する。どちらもユダヤ的な教授法というのが面白い。

 祭司長や民の長老というまさにラビの代表のような人たちに対して、ラビ的教授法というユダヤ的な手法で言い負かしている。この書を読んだユダヤ人に対してとても説得力を持ち効果的なんだろう。

 

 「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。(マタイ21:43)」という箇所の解説も納得だった。

 この箇所は置換神学においてはユダヤ人から教会に神の祝福の対象が変更された根拠とされている。しかし、「教会」を「国民」と呼ぶことはないし、メシア的王国=千年王国ダビデ契約の成就であり、この契約の対象はイスラエルである。だから、「神の国の実を結ぶ国民」というのは患難時代を生き抜き信仰に立ち返ったユダヤ人のことだ。

 イエスを拒否した結果、エルサレムは滅びた。現在はイエスラエルは国として復興したが、いずれヨハネの黙示録で預言されている患難時代を通過し、最後にイエスを受け入れ、そして、イエスが再臨してメシア的王国が成就する。というシナリオだ。

 話が壮大過ぎて圧倒されるが、筋道が通って納得できるし、面白い。