【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(20)

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年2月25日)→

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 今回はマタイの福音書第20章です。

ここまでの文脈

 マタイの福音書第21章からは、イエスの公生涯最後の1週間が始まる。

 今回の第20章はその直前。第19章で滞在していたヨルダン川の向こう側のペレヤからエルサレムに上る途上で、弟子訓練の最終段階を迎える。しかし、いまだにイエスの自身の受難に対する認識と弟子たちのメシア的王国への期待とは、ずれたままである。 

今回のメッセージを要約すると

  • 天の御国について、ぶどう園の労務者のたとえ話では、その報酬は年功序列ではなく神の恵みによって決められること、また、サロメに対するイエスの答えでは、そこではみなに仕える者が最も偉いと教えられた。
  • エスは3度目の受難の予告をするが、いまだに弟子たちは理解できず、近いうちにメシア的王国が実現されると思っている。
  • 二人の盲人を私的に癒すが、これはメシア性が拒否されたイエスは、メシア的奇跡を公の場ではもう行わないことを再度強調している。

感想・気づき

 メッセンジャーがぶどう園の労務者のたとえ話について、私たち現代のクリスチャンは言うなれば、午後5時59分に雇われた労務者だ、と説明していたのが心に刺さる。早朝の労務者がアブラハムならば、12使徒は午後3時、初期の異邦人クリスチャンは午後5時の労務者だろうというのも面白かった。それでも神は平等に1デナリの報酬を与えてくれる。

 

 父なる神に忠実かどうか、人に仕える者かどうかが天の御国では評価される。報酬のことを考えるのではなく、「今」が楽しいし、その「過程」、つまり神と共に生きることそのものが報酬なんだ、という説明も、本当にその通りなんだろうなと思った。

 過去や未来のことを考えすに、「今」に集中するというのは、アドラー心理学のようでもある。例えば、堀江貴文氏なども同じようなことを言っている。クリスチャンとリバタリアンでは目指す方向性は全く違うものの、生き方としては似ている。実例もある訳だから、実践しない選択肢はないよなと思う。

 早朝からぶどう園で働いた労務者にはそれだけの喜びがあったんだ、というのもその通りだなぁと思うし、そういう生き方をしたい。

 

 それにしても、ぶどう園のたとえ話をした直後に、サロメが息子のヤコブヨハネとに高い地位を与えて欲しいとイエスに懇願するのは、滑稽な感じがした。報酬は父なる神が決めるし、みな1デナリだよ、とイエスが言った直後だからだ。全く弟子たちに教えが伝わっていない。

 でも、イエスの受難のあと、弟子たちだけで伝道をする中で、イエスの教えを理解していくんだろうな。自分自身のことを考えてみても、仕事や勉強でも学んだ直後には全然わかっていなかったんだなと、あとから振り返って感じることがある。その時は「わかった」と思っていたのに、実際に手を動かしたり、経験して初めて「わかったつもり」になっていたことに気づくようなことだ。

 現在は、福音書含め新約聖書が全てある状態だけど、12弟子たちは旧約聖書しかない状態で、今まで全く知らなかったことをイエスから知らされている訳だから、弟子たちの反応は自然だし、実際にあったことが記録されているということなんだろう。かえって信憑性の高い記録とも言えるのだろう。