「奥義としての王国」が「メシア的王国」に取って代わる【感想・備忘録】30日でわかる聖書 マタイの福音書(13)

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ここまでの文脈

 パリサイ人たちは、イエスの行っているメシア的奇跡を、悪魔の力によるものだとして拒否した。その結果、ユダヤ人は民族として「赦されない罪」を犯した。

 このことにより、この時代のユダヤ人からは、イエスバプテスマのヨハネがそれまでに伝道していた「メシア的王国」は取り上げられた。そして、以後は旧約聖書には預言されていなかった「奥義としての王国」が始まる。「奥義」とは隠されていたが、明らかにされたものという。

 イエスはたとえ話を通じて、この「奥義としての王国」の特徴を説明する。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスは「奥義としての王国」の特徴をたとえ話を通じて説明する。
  • この特徴を理解した者は、神の国の弟子とされる。
  • 「奥義としての王国」には新しい特徴・真理があるが、旧約聖書に記されている昔からの特徴や真理もまた適用される。

感想・気づき

 9種類のたとえ話があるが、一番目の「種まきのたとえ」が最も基本になるたとえ話。「奥義としての王国」の時代も、福音の種は継続して巻かれるが、福音に対して種々の敵対する力が働く。この世の思想、悪魔などである。

 福音を語るとそれにたいして様々な反応がある。全くの不信仰、福音を喜んで聞いて信じるが理解が浅く信仰が育たない人、福音を聞くが学んだ真理を現実生活に適用できない人、福音を聞いて悟り良い実を結ぶ人。人によって反応は様々だが、福音を語りその種をまき続ける必要がある。

 

 「毒麦のたとえ」は教会内にも、それ以外の世界でも、良い麦と毒麦とが共に育っていくが、見分けが付かないというたとえ話。しかし、最後には本物と偽物とは区別され、毒麦は焼かれることになるので、悪人が栄えてもうらやましく思う必要はない。

 また、「からし種のたとえ」では、キリスト教界は世界的な広がりを見せるが、その中に悪魔の影響が留まることを言っている。具体的にはキリスト教の異端やカルトの存在のことを指している。エホバの証人モルモン教統一教会などが代表的だろう。

 そして、「パン種のたとえ」ではカトリック東方正教会プロテスタントの中にも誤った教理が含まれていることを説明している。

 

 「畑に隠された宝」はイスラエルの残れる者を指している。「宝」とはイエスラエルのことで、出エジプト19:5、申命記14:2、詩篇135:4を念頭にたとえに使われている。「海の真珠」は福音によって救われる異邦人のことだ。「真珠」については旧約聖書では言及はないが、「海」は呪われた異邦人の世界を象徴しているので、そこからたとえの意味を推測できる。そして、「畑を買う人」も「真珠を買う商人」もともに全てを犠牲にして救いを人類にもたらした主イエス・キリストの姿を指している。

【感想・備忘録】ルカの福音書(20)最初の弟子たちの招き5:1~11

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 ナザレを去ったイエスはカペナウムを宣教の拠点とした。イエスの権威は、悪霊の追い出しと病の癒しによって広く証明されていった。そして、カペナウムに留まるように懇願されたが、イエスユダヤ全土の諸会堂で宣教を続けた。

 今回の箇所では、イエスはシモン、ヤコブヨハネといった最初の弟子たちを招かれる。それまで、彼らは漁師をしながらイエスに従っていたが、この召命が転機となる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 群衆がイエスに押しかけてきたので、イエスはシモンに頼んで小舟に乗ってゲネサレ湖(ガリラヤ湖)に漕ぎ出してもらう。
  • エスはシモンに網を下ろすように指示すると、通常漁は昼にはできないはずにも関わらず、大漁となる。
  • エスはシモン、ヤコブヨハネに弟子となるよう召命する。

感想・備忘録

 シモン、ヤコブヨハネはこの大漁の奇跡を目撃し、イエスこそ「主(キュリオス)」だと認識する。当時の漁は夜に浅瀬で行うのが通常だったのに、昼間に深みで網を下ろしたにも関わらず大漁になったので、通常はあり得ないことが起きたのだ。シモンたちが使っていた網は亜麻糸でできており、昼間だと魚に見えるので夜にしか漁をしても魚が取れなかったからだ。

 彼らはイエスをメシア(救世主)だと信じた。しかし、当時の一般認識では、メシアはローマの圧政からユダヤ人を解放する政治的解放者、政治的メシアと理解されていた。だから、イエスは公生涯の間ずっと、正しいメシア像を伝えることに苦心した。そして、結局、それは伝わらずイエスの十字架の死と復活以後に初めて弟子たちに正しく理解されるようになる。

 

 大漁の奇跡が起きたのは、シモン達は夜通し漁をしたが何も取れない不漁の日だった。にも関わらず、通常では考えられない方法で大漁となった。これには様々な適用が可能であろう。

 例えば、人間が自身の努力に対して成果でなくて落胆する時は、神の介入のチャンスである。また、人間的判断で行う奉仕は疲れとストレスばかりが溜まるが、神の導きに頼る時はそうはならないというものもあるだろう。また、ルカの福音書ではガリラヤ湖の「深み」とは異邦人世界の象徴と考えられているそうだ。

シモン(=ペテロ)は妻子持ちの漁師【感想・備忘録】ルカの福音書(19)シモンの姑の癒し4:38~44

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 荒野で悪魔からの誘惑に打ち勝ったイエスは、聖霊の力に導かれてガリラヤ伝道を開始した。

 イエスは故郷のナザレを訪問し伝道したが、ナザレの人々はイエスを信じなかった。ナザレで起こったことはイスラエル全土でも起きることになる。その後、イエスはナザレからカペナウムへ下り、そこを宣教の拠点とした。

 イエスの権威は、宣教活動の中で行われた悪霊の追い出しと病の癒しによって証明される。前回は悪霊の追い出しを扱った。今回は病の癒やしを扱うことになる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 会堂での礼拝の後、イエスはシモンの家で彼の姑の病を癒やす。
  • 日没後(=安息日が明けた後)に、種々の病で苦しんでいる人々がイエスの下に連れてこられたので、イエスは一人一人癒やしていった。
  • 群衆はイエスをカペナウムに引き留めようとするが、イエスは断ってユダヤ全土の諸会堂で宣教を続ける。

感想・備忘録

 イエスは会堂での礼拝の後に、シモン(=ペテロ)の家へ入った。礼拝を終えると帰宅して食事を取るのが当時の習慣であったので、イエスもまたシモンの家で食事を取ろうとしたのであろう。カペナウムの会堂からシモンの家までは徒歩1〜2分で極めて近く、これは発掘された遺跡から明らかになっている。

 シモンの姑は「ひどい熱で苦しんでいた(ルカ4:38)」と医者であるルカは記しているが、これは医学用語であり恐らく慢性的熱病であると考えられ、風土病のようなものだろう。

 また、イエスはシモンの姑の「枕元に立って(ルカ4:39)」病を癒やした。英語の訳では "And he stood over her (ASV) " や "So he bent over her (NIV) " となっており、枕元というよりは上から覗き込むようにしていたことがわかる。これはルカが、イエスは医師が患者を診断する時の姿勢を取っていたことを示している。

 

 イエス下に連れてこられた多数の病人を癒やした際、原因が悪霊の場合は悪霊の追い出しも同時に行ったようだ。その際、悪霊たちが「あなたこそ神の子です(ルカ4:41)」と叫びながら出ていったが、イエスは悪霊たちを「叱って、ものを言うのをお許しにならなかった(ルカ4:41)」。イエスは悪霊の証言を認めない。これはイエスと悪霊とに関連があるかのような印象を人々に与えたくないと考えたからだ。悪魔は嘘つきであり、その配下の悪霊たちも同じ性質を持っている。だから、彼らの証言はイエスにとっては必要がないし、かえって迷惑だったのだ。

 イエスは、約束の地のユダヤ人たちから神の子と認められるために地上に来られて宣教をしていたのだ。

 また、ここで悪霊たちはイエスがメシアであることを知っていた。それは当時のユダヤ人以上によく知っていた。しかし、知っていることと信じてその権威に服従することとは必ずしも一致しない。知識はあっても信じないというのは、悪霊だけの話ではないということだ。

 

 今回の聖書箇所で、ペテロは結婚していたことがわかる。だから「姑」がいた。だから、ペテロは独身だったという教えは、聖書的ではない。恐らく妻の父が亡くなったので、妻の母をシモンは自分の家に引き取っていたのだろう。彼は家があり、職業があり、家族がいた。そしてカペナウムのユダヤ人共同体に根を張った漁師だった。

ヤコブが夢で見た階段はイエス・キリストの型【感想・備忘録】創世記(41)—ヤコブの霊的体験—

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 アブラハム契約は聖書全体を理解するための鍵である。この契約はアブラハム、イサク、ヤコブへと継承されていく。前回の箇所ではリベカとヤコブの共謀によりイサクとしては不本意な形でヤコブを祝福したが、今回の箇所でイサクからヤコブへとこの契約と祝福が継承されることが鮮明になる。

今回の聖書箇所を要約すると

感想・備忘録

 ヤコブエサウの殺意を恐れて、母・リベカの言われるままにリベカの故郷ハランへと旅立つ。この時、ヤコブの年齢はなんと70歳だった。ヤコブの心境を考えると、母の言ったこととはいえ、実の兄であるエサウをだましたことへの後悔や、この年齢になってこんなことになるなんてという失望の念にかられていたことだろう。そして、なによりこれからの将来への不安も大きかったことだろう。

 そんな中でヤコブは野宿をしていると、夢で「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて(創28:12)」いるのを見る。そして、その階段の一番上に神の顕現であるシャカイナグローリーを見た。ヤコブは知らなかったが、この場所は創世記12:8でアブラハムが祭壇を築き、初めて神に礼拝を捧げた場所だったのだ。

 ヤコブが約束の地を離れようとし、不安で一杯になっていたまさにその時、神は初めてヤコブに現れ、彼を祝福し、アブラハム契約の内容を再確認した。創世記27:27〜29ではヤコブはイサクをだまして祝福させ、創世記28:1では改めてイサクに呼ばれて祝福されているが、ここにきて神からの祝福があった。これにより、アブラハム契約がイサクからヤコブへと継承されたことがはっきりと鮮明になったと言える。

 

 ヤコブはこの夢の中で、階段を天使たちが上り下りしているのを見た。ヨハネ福音書1:51でイエスは弟子のナタナエルに「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と言うが、これはヤコブがベテルで見た夢を念頭に言っている。イエスが天の父と地上の人間との仲介者であり、ヤコブが夢で見た階段の実体ということだ。

 神はヤコブに「地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される(創28:14)」と言われたが、現在は異邦人の祝福はイエス・キリストを通じて与えられる。この異邦人に対するアブラハム契約の祝福の原点は、ヤコブが野宿をしたこのベテルにあると言える。

 

 リベカがヤコブをハランへと送り出した際、「兄さんの怒りが収まって、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れたとき、わたしは人を送って、あなたをそこから呼び戻しましょう(創27:45)」と言うが、元々エサウを騙すようにヤコブに勧めた時は「あなたへののろいは私の身にあるように(創27:13)とヤコブに言ってた。にも関わらず、「あなたが兄さんにしたこと」と言ってリベカは自分の責任をヤコブに押し付けようとしている。

 また、リベカが「あなたたち二人を一日のうちに失うことなど(創27:45)」と言っているのは、ノア契約の条項を適用すると、もしエサウヤコブを殺せば、エサウもまた死刑となることを指している。

イエスの宣教ポリシーの変更【感想・備忘録】30日でわかる聖書 マタイの福音書(12)

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 イエスは公生涯を始められ、ユダヤ人達に神の国の福音を伝道している。訓練ができた弟子を12使徒として派遣し、伝道は次第に広がっていった。

 今回はイエスの伝道活動のピークとそこからの宣教ポリシーの変更を見ていく。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスはパリサイ人と安息日に関する口伝律法について論争し、イエスはメシア的奇跡を悪霊の力で行っていると言った。
  • これによりパリサイ人はユダヤ民族の代表として「赦されない罪」を犯し、イエスはこれ以後はメシアのしるしを求めても「ヨナのしるし(=復活)」しか与えられないと宣言する。
  • これ以後、イエスは宣教ポリシーを変更し、大衆伝道から弟子の訓練を中心に活動を続ける。

感想・気づき

 パリサイ人は安息日に畑の麦の穂を食べるイエスの弟子たちを律法違反だと糾弾する。この段階では、サンヘドリンのメシア運動の評価は「観察」の段階から「審問」の段階に変わっていたので、パリサイ人達は何かあるごとにイエスを糾弾するようになる。空腹になった時に、他人の畑の作物を食べることはモーセの律法で許されているので、これは罪ではない。パリサイ人が問題にしているのは、安息日に労働をした、という点だ。

 安息日にはモーセの律法によれば一切の労働をしてはいけない。パリサイ派の口伝律法によれば、麦の穂を摘むことは「収穫」、麦の穂から中身を出すことは「脱穀」、籾殻を捨てることは「ふるい分け」、それを食べて胃袋に入れることは「貯蔵」にあたり、4種類の「労働」をしているという判断になるのだ。

 これに対してイエスは第1サムエル記を引用して反論する。ここでもイエスモーセの律法は遵守しているが、口伝律法については徹底的に批判している。

 また、旅人が空腹になった時は他人の畑の作物を取って食べることはモーセの律法で許されているが、これは現代のイスラエルでも法的に許されているらしい。モーセの律法が現代でも生きていることの一つの証拠としてとても面白いと思った。

 

 その後、イエスは口の聞けない人から悪霊を追い出した。これは当時のパリサイ派の教えでは、メシアにしかできない「メシア的奇跡」とされていた。だから、それを見ていた民衆はイエスのことをメシアとして信じ始めた。しかし、パリサイ人たちは、パリサイ派の口伝律法を守らないイエスをメシアと認めたくないので、イエスの奇跡は「悪霊のかしらベルゼブル」つかれているからだという詭弁を弄する。

 実はこれがユダヤ人たちがイエスを拒否する公式の理由となり今日に至っている。タルムードにもイエスは魔術を使って人々を惑わせたと記録されている。面白いことに、イエスが奇跡を行ったことはタルムードは否定していない。これは実際に多くの人々がイエスの奇跡を目撃していたので、そのことまで否定することは当時のパリサイ人達もできなかったということだろう。

 これは「赦されない罪」とイエスは呼んだが、十字架の前のこの時点でユダヤ人は民族としてイエスを拒否したと判断されたのだ。イエスの伝えていた「神の御国」は一時的にユダヤ人から取り上げられることになる。

 

 ここに、パリサイ人によるイエスの拒否は決定的となり、イエスはこれ以後宣教ポリシーを変更する。民衆に広く伝道することを止め、弟子たち(特に12使徒)の訓練に注力するようになる。民衆の前で公に奇跡を行うことを止め、私的な奇跡しかしなくなる。しかも、それまでの公の奇跡は相手の信仰の有無は問わなかったが、私的な奇跡を行う際は必ずのイエスに対する信仰を問うようになる。また、奇跡によって病を癒やすなどした場合も、周囲に言い広めることを戒め、沈黙を要求するようになる。そして、明瞭な教えから、たとえ話を用いた教えへと変化する。

国際都市カペナウム【感想・備忘録】ルカの福音書(18)悪霊につかれた人の癒し4:31~37

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 荒野で悪魔の誘惑に勝利したイエスは、聖霊の力によってガリラヤ伝道を開始した。イエスは故郷のナザレでも伝道をするが、ナザレの人々はイエスを信じなかった。その後、イエスはナザレからカペナウムに下り、そこを拠点として活動を始める。

今回の聖書箇所を要約すると

  • ナザレを去ったイエスは、カペナウムでは民衆の信頼を得た。
  • エスは、預言者のように神の権威によって語り、また、悪霊を追い出して自身のメシア性を証明した。
  • エスの噂は短時間でガリラヤ全体に広がった。

感想・備忘録

 当時のユダヤ人はエルサレムから離れることを「下る」といい、近づくことを「上る」と言ったが、ナザレは標高360m地点にあり、カペナウムの標高はマイナス200mなので、ナザレからカペナウムまでは前者の意味でも下っているし、物理的に高い場所から低い場所に移動するという後者の意味でも下ったと言える。

 カペナウムが「ガリラヤの町」とユダヤ人にとっては当然の情報をわざわざ書いているのは、ルカの福音書が異邦人読者を意識してかかれているからである。この町はペテロとアンデレの故郷でもあり、漁業の盛んな町だった。また、国境の町で交通の要衝の地であったため、異邦人たちの往来も多かった。多言語が話される国際都市とも言える場所で、新しい教えに対しても比較的オープンであり、様々な意味で伝道の拠点に適した街だった。

 

 カペナウムの人々はイエスの「言葉に権威があった(ルカ4:32)」からその教えに驚いた。パリサイ派の律法学者の教えは、過去のラビたちの教えを引用しその上に自分の教えを付け加えるという形式だったが、イエスの教えは旧約聖書預言者のように、権威ある神の言葉をそのまま語ったからだ。律法学者の教えもある意味、学術的な手続きに則って過去の成果の上に論を建てていると言えるが、その基礎になっている過去の成果がそもそも誤っていたのが、パリサイ派にとっての不幸だろう。

 イエスは、自身の言葉の権威を、一連の奇跡によって可視化し、証明してみせた。今回の聖書箇所では悪霊の追い出しによって、別の箇所では病の癒やしによってである。これは同時にイエスのメシア性の証明にもなっている。

イサク一家の不完全さと罪【感想・備忘録】創世記(40)—族長の祝福—

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 前回は、イサクの生涯を取り上げた。今回はイサク一家の様子を取り上げ、解説する。イサク、リベカ、ヤコブエサウはそれぞれに罪を犯すが、それでも神の計画は進んでいく。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エサウに祝福を与えようとするイサクを、ヤコブは欺いて自分を祝福させる。
  • ヤコブの罪は、長子の権利を奪ったことではなく、父・イサクを欺いたこと。
  • エサウヤコブに欺かれたと嘆くが、長子の権利はすでにヤコブエサウから買い取っていたので、長子の権利について欺きはない。

感想・備忘録

 イサク一家がかなりの機能不全家庭だったんだなと感じた。父・イサクはエサウを偏愛し、母・リベカはヤコブを偏愛していた。リベカは父・イサクを騙すようにヤコブを仕向け、エサウヤコブに恨みと殺意を抱く。イサクはイサクで、アブラハム契約を継承するのはヤコブであるとリベカが神から言葉を聞いていることを知っていたのに、自身の偏愛するエサウに祝福を与えようとした。夫婦関係、親子関係、兄弟関係、一体どんな感じの家族だったのだろうか。

 神はアブラハムを選んで契約を結び、神の計画を実行するが、その選ばれた人間のなんと頼りないことか。様々な失敗はイサク家族だけではなく、アブラハムの代でも起きていた。アブラハムは飢饉になって、約束の地から出て、エジプトまで下ってしまったし、サラは子どもが与えられないことに焦って、奴隷のハガルにアブラハムの子を産ませてしまった。どちらの失敗も神の介入をもう少し待つべきだったのだ。

 

 イサクは本来イサクに与えるべき祝福をエサウに与えようとした。リベカはヤコブを使ってイサクを欺こうとした。そして、家族を分裂させてしまった。ヤコブは何度も嘘を付いてイサクを欺いた。エサウはすでに長子の権利をヤコブに豆の煮物と引き換えに売っていしまっているのに、父からの祝福を求めた。エサウは霊的な祝福には興味がなかったが、物質的経済的祝福にのみ興味があったのだ。

 このような不完全は家族であっても、このイサク家族を通じて神はご自身の計画を進めていかれた。神に選ばれた人を聖人君主としてではなく、ありのままの不完全なまま描いているのはある意味自分自身のことを考えると励まされる。このように欠点の多い人間を用いて神は計画を成就されるからだ。