【感想】創世記(35)—イサクの嫁探し(1)—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2009年3月9日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回は創世記24:1~24:31までです。

ここまでの文脈

 アブラハムは、イサクの奉献という生涯のクライマックスを、信仰によって乗り越え、今や人生の仕上げの時期に差し掛かっている。

 その後、サラが亡くなり、約束の地に彼女の墓地を購入した。そして、これからイサクの嫁探しを考え始める。

今回の聖書箇所を要約すると

  • アブラハムは、最年長のしもべであるエリエゼルと契約を結び、兄ナホルの住む町ハランへとイサクの嫁探しのために派遣する。
  • ハランに到着したエリエゼルは井戸のそばでリベカと出会い、彼の祈り通りの人物だったので、金の飾り輪と腕輪を贈る。
  • リベカの兄・ラバンが現れ、エリエゼル一行はしばらく彼の家に滞在するよう招待される。

感想・気づき

 エリエゼルは、アブラハムの全財産を管理していた。アブラハムからの信頼が最も厚いしもべだった。アブラハムに子どもが与えられていない間は、彼はアブラハムの相続人としての権利があったが、イサクの誕生(または、イシュマエルの誕生)によって、その権利は失われた。にも関わらず、彼は全く苦々しい思いを抱かずに、忠実に主人であるアブラハムに仕えていた。そして、今回のイサクの嫁探しも心から主人のために働いた。

 このエリエゼルの姿勢は見習うべきものだなと思う。自分が同じ立場だったら、まず間違いなくアブラハムの富に目が眩み、いつまでも「主人に子どもが生まれなければなぁ」という思いをいただき続けていると思う。人生の考えても仕方のない、「あの時、ああであれば、こうであれば」ということをクヨクヨと考えて、暗い気持ちになって落ち込むことが度々ある。エリエゼルのように与えられた場所・環境で、与えられた能力に応じて全力で仕えるということがいかに大事で尊いことか。主人に忠実な者には、それに応じた報いが受け取れるということだろう。

 

 アブラハムがエリエゼルをハランに派遣する際に、「あなたの手を私のももの下にいれてくれ(創世記24:2)」と言っている。これは婉曲表現で、エリエゼルにアブラハム生殖器を掴むようにと言っている。この行為は厳粛な契約を意味する行為で、もし不履行になった場合は子どもたちが復讐する、という意味である。これは割礼による契約に匹敵する重みのある契約である。

 こういったユダヤ文化、中東文化についての解説はいつ聞いても面白い。今の時代、調べればわかることなのだろうが、あまり意識せずに読み飛ばしてしまっているので、改めて解説されると非常に面白いし毎回驚く。

 

 アブラハムはエリエゼルとの契約の中で、イサクはカナン人と雑婚してはいけないこと、また、イサクをハランに連れ帰ってはいけないことを条件としている。アブラハムは、神が彼に約束したことを堅く信じていた。だから、イサクの将来はカナンの地にしかないと考えていた。だから、条件に合わなければエリエゼルは契約から解かれると言っている。アブラハムからしたら、イサクがハランに行って結婚したり、カナン人と雑婚する位なら、カナンの地で独身のままでいて、神に仕える方がよいという訳である。

 これは、クラスチャンの結婚観に影響を与える箇所だ。よくよく考えて、それがハランの地での結婚生活になっていないかどうか考える必要があるということだろう。ちょっと色々考えさせられてしまう。

 

 エリエゼルがリベカを井戸のそばで試した時、リベカは純粋にその良い性格のゆえに、彼にもラクダにも水を汲んで飲ませた(ラクダは最大で80リットル程度の水を飲むこともあるらしい)。それに引き換え兄のラバンは「飾り輪と、妹との腕にある腕輪を見(創世記24:30)」て、エリエゼルの元へと急いだ。彼は富に惹かれたのだ。これは、将来ヤコブに対して非常に狡猾で貪欲な態度を取ったこととも一貫しており、彼の性格がよく表されている。