【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(8)
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今回のメッセージはここで聞けます(2007年11月19日)→
©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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今回はマタイの福音書第8章です。
ここまでの文脈
イエスが旧約聖書の示すメシアであることを証明するために、冒頭に系図が書かれ、次に誕生の経緯が語られた。そして、バプテスマのヨハネから洗礼を授かりイエスの公生涯が始まった。その直後、荒野でサタンからの試みを受け、メシアとしてのテストに合格すると、山上の垂訓を通じてメシアの教えを弟子たちに語った。
今回の箇所では、メシアの業(行為)が描かれる。
今回の聖書箇所を要約すると
- 5種類の癒やしが描かれ、それぞれがイエスのメシア性の証明になっている。
- 5種類の癒やしは全て性質の違うもので、マタイがイエスの行った癒やしの内、代表的なものをピックアップして記録していると思われる。
- イエスの弟子となるためには、決心と自己犠牲が求めらる。
感想・気づき
イエスに癒やしを求めるレプラ患者の解説が感動的だった。彼はイエスが自分のことを癒やす能力があることを信じてはいたが、自分のような人間に憐れみをかけてくれる自信がなかったために、「癒やしてください」とは言わずに「私をきよくすることがおできになります(マタイ8:2)」と言った。このレプラ患者のためらいに対して、イエスは「私の心だ。きよくなれ」と答える。ためらう者に対して、心からあなたを憐れんで癒やしてあげますよというイエスの応答である。
このレプラ患者のためらいや、それに対するイエスの愛のある応答など、聖書では、はっきりとわかりやすく説明してしまうのではなく、登場人物のちょっとした言い回しに注意深く、感情の動きや心情を表現したり、言葉ではなくその人がどのような行動をしているかで心の動きを表現している。登場人物の「演技」によって様々なことを説明しているところがあり、読み取るのがなれないと解説なしには難しいのだが、その意味がわかると、非常に味わい深く、登場人物の心の在りようが伝わってくる。非常に演劇や映画、映像的な表現をしている。文学には詳しくないのだが、こういう表現方法には何かカテゴライズされた用語などあるのだろうか。
ちなみに、レプラの癒やしについて、当時のラビたちはメシアにしかできない奇跡として教えていた。だから、イエスはモーセの律法に従ったきよめの手順を指示し、祭司に見せるようにこのレプラ患者に命じている。
この章では百人隊長のしもべの癒やしという有名のエピソードが描かれている。このエピソードの「権威」の解釈は大好きだ。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます(マタイ8:8)」と言う百人隊長と、彼の信仰と権威というものに対する理解に驚くイエス。
例えば、会社に務めている人ならば後輩から「これコピーしとけよ!」といきなり言われたら不愉快だと思いますが、「『これコピーしとけよ!』って社長が言ってました」と同じ後輩から言われたとしたら、感じ方は随分違うと思います。これは社長が社員に対して、その会社の仕事に関しては権威を持っているからで、必ずしも直接相手に言う必要はないわけです。これと同じことを百人隊長はイエスに言っている。権威は人づてに送ることができる。
また、異邦人であるこの百人隊長がイエスの癒やしに与れるのは、アブラハム契約の祝福の条項によっている。ルカの福音書第7章では、ユダヤ人の長老たちが、この百人隊長について「私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました(ルカ7:5)」と言っている。それゆえ、イスラエルを祝福するものは祝福されるというアブラハム契約が適用されているのだ。彼は異邦人の救いの先駆けとなっている。
弟子の一人が「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください(マタイ8:21)」と言うが、これは本当にこの人の父親が死んだということではなく、何かを断る時の常套句である。これも非常に面白い。中東では長男は父を最後まで看取り、1年経ったらその責務から解放されるという慣習があるが、この常套句はこの慣習を前提としたものだ。
この聖句を使って、親戚や友人、実の両親などの葬式に出てはいけないと教えるカルト教会もあるが、全く意味を取り違えているということだ。