【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(6)山上の垂訓(2)

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 今回のメッセージはここで聞けます(2007年11月5日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回はマタイの福音書5:21~6:34までです。

ここまでの文脈

 公生涯が始まったイエスが、弟子たちに対して「山上の垂訓」を語っている。

 「山上の垂訓」は既に救われている弟子たちに語られたもので、「救われるための方法」ではなく、「メシアによる律法の義の解釈」である。

今回の聖書箇所を要約すると

  • パリサイ人の口伝律法は人の外側の行為を見るが、メシアによる律法の義の解釈においては人の内面の心・動機を見る。
  • 律法の義を実践に移す場合、人の歓心を買うためではなく、人の目に付かないように行い、神のみに知ってもらうようにしなければならない。
  • 「主の祈り」はそのまま暗記して唱えるものではなく、祈りのモデルとして考えるべきもの。

感想・気づき

 「思い煩いは罪だ。」という点が、心に刺さった。よく思い煩うことがあるから。

 「思い煩う」とは、明日の生活を心配することであり、将来を見ようとすることは罪なのだ。それは天の父に信頼していないことであり、占いをあてにするようなものだから。そして、罪なのであるから、思い煩ってしまった場合は、天の父に罪を告白し悔い改めなければならない。その積み重ねで思い煩わなくなりますよ、と解説されていた。

 今日からそのようにしよう。

 

 マタイの福音書5:21以降で「〜と言われているのを、あなたがたは聞いています」というフレーズが繰り返し出てくる。これは全てパリサイ派に伝わる口伝律法を指しており、当時はまだ成分化されていなかったので、このような表現になっている。つまり、イエスはここでモーセの律法は一切否定しておらず、あくまでパリサイ派の口伝律法を問題視していた。モーセの律法は「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決した廃れることはありません(マタイ5:18)」とイエスが語っているとおりである。

 この点は非常に誤解されているので、何度強調しても強調し過ぎではないと思う。イエスが否定したのは、口伝律法だけだ。そして、その口伝律法は人の行い、外側のみを問題にしていた。実際には神は人の心を見られる。そして、その心から出た行為が尊いのだ。

 

 「主の祈り」については、その直前でイエスが「祈る時、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません(マタイ6:7)」とはっきりと言っているので、暗記して唱えるものではない。「主の祈り」が示している要素を踏まえて、これをモデルとして自分の言葉で祈るのだ。