【感想】創世記(30)—ソドムとゴモラの滅び—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2009年1月26日)→

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 今回は創世記19:1~38までです。

ここまでの文脈

 神はアブラハムを選び、彼とその子孫を通して全人類を救おうとし、彼とアブラハム契約を結ばれた。

 その後、アブラハムは3人の旅人をもてなしたが、実はそのうち一人は神で、あとの二人は天使だった。その時、サラは来年子を産むと神は約束し、また、ソドムとゴモラの滅びが預言された。

 アブラハムは、ロトとその家族のことを心配し、神に対して執り成しの祈りをした。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 二人の天使は同性愛の罪のゆえにソドムとゴモラを滅ぼすが、ロトとその一家(妻と二人の未婚の娘)は助け出す。
  • 妻は逃避先で、天使との約束を破り、ソドムの方を振り返ったので塩の柱になってしまう。
  • ロトと二人の娘は、今でいうヨルダンの山中で暮らすようになるが、二人の娘は父であるロトを酒で酔わせ、近親相姦の罪を犯して子を残す。

感想・気づき

 ロトは今回の聖書箇所全編を通して、非常に不甲斐ないが、それでもⅡぺて2:6~9によるとロトは「義人」と評価されている。

 ロトは恐らく都市生活の誘惑に負けて、初めは遊牧民として町の外に住んでいたのが、次にソドム町に住むようになった。そして、アブラムがソドムの町を救ったことからロトはソドムの町で、長老の一人となり、門のところに座るようになった。

 彼は高い地位に着いたが、実際には影響力は皆無で、町の人々が彼の家に押し掛けたときも「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている(創19:9)」と罵られ、全く尊敬されていない。

 そんな状態のロトであっても、彼はソドムの町の罪深さに心を痛めていて、彼の義の行為のゆえに町の人々から迫害されたのだ。

 

 ソドムの町の罪は、同性愛の罪と性的堕落だった。ロトが招いた二人の旅人(実は裁きの天使)について、町の人々が「おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。・・・彼らをよく知りたいのだ(創19:5)」とロトに言ったが、これは男性同士の肉体関係を集団で迫っている。集団レイプをさせろとロトに迫っているのだ。

 ロトは、旅人の代わりに未婚の二人の娘を差し出そうとするが、これは彼が同性愛の罪(しかもレイプ)よりも異性愛のレイプだけの方がまだ罪が軽いだろうと考えたためだろう。しかし、この妥協も神の許容範囲を超えていた。ロトの罪にたいする感覚はかなりおかしくなっていたようだが、これは、アブラハムから離れ、ソドムに居ついてしまったがためだろう。

 メッセージでは、同性愛は最も思い罪だと解説されているが、その点は疑問が残る。確かに聖書では同性愛は罪だとはっきり言っているので、それは罪なのだけれど、ソドムは、広場で野宿しただけで、集団レイプに遭うのが通常であるような治安の悪さ、また、同性愛以外にも様々な罪が渦巻いていたということが問題ではないのだろうか。女性であっても広場で野宿したらやはり同じような目に遭ってしまうのだろう。

 神からの義認されなければ、神の前では、一点のシミも傷もあってはならず、全て罪として裁かれるのだから、そのシミや傷の大きさの大小はあっても罪を犯すという意味では全て同じではないのだろうか。

 

 夜明けになると、天使に手を引かれてロト一家は逃げる。「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の日を天の主のところから降らせ(創19:24)」る。この「主」はこの時地上にいた「子なる神」、「受肉前のメシア」であり、「天の主」は「父なる神」のことだ。三位一体の神が暗示されている。

 ロトが逃げたとき、一緒に逃げたのは妻と二人の娘だけだった。既婚の娘と婿たちは誰も説得することができず、夜が明けてしまったのだ。これもロトがいかに周りから尊敬されていなかったか、一家の主としての尊厳を失っていたか、ということを表している。

 

 ロトの二人の娘は、ロトと肉体関係をもって子を残す。それぞれ、モアブ人の祖となるモアブと、アモン人の祖となるベン・アミである。ソドムは滅びたが、その遺伝子はモアブ人とアモン人において再生される。この二つの民族はイスラエルの民に対して、将来姦淫と偶像礼拝の罪を犯させることになる(cf. 民数記25章、バアル・ペオル事件。レビ記18:21、モレク崇拝の禁止)。

 

 今回の箇所は何度読んでも、異様な物語だと思う。なぜ旅人の代わりに自分の娘をレイプさせようとするような人間が義人なのか不思議に思っていた。しかし、ある文化の中で暮らしていると、例え信仰を保っていたとしてもその文化の基準で物事を考えてしまうようになるのだろう。現代においても、自分で気づかないだけで、別の時代から見たら、異様としか言えないことがまかり通っているのだろうと思う。そして、そのことは自覚できないのだろう。