【感想】創世記(25)—アブラムの義認—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年12月15日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回は創世記15:1~6までです。

ここまでの文脈

 第6の区分「テラの歴史」、アブラハムの物語が続いている。人類は、これまでにアダムの堕落、ノアの大洪水、バベルの塔事件と3回の大失敗をしてきた。神は、第4の方法として、アブラムを選び、彼とその子孫を通じて全人類を救おうとされる。

 アブラムは、神から子孫、土地、祝福の約束を受け、それを信じてカルデヤ人の町・ウルから約束の地へ赴き、各地に祭壇を築いた。しかし、飢饉が起こるとエジプトに下る。その後、約束の地に帰り、甥のロトと分離した。ロトが戦争に巻き込まれた際には、彼を救出するために、4人の王と戦った。

 今回は、この戦いのあと、神がアブラハム契約を再確認する。子孫については、今回の創世記15:1~6で、土地については、次回の創世記15:7~21でカバーする。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 神はアブラハム契約を再確認するために、アブラムに語りかける。
  • アブラムのの子孫は天の星の数ほどに増えると神は約束する。
  • アブラムの神のことばを信じたので、神の前に義とされた。

感想・気づき

 「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創15:6)」。この一文の内容がすごい。「救いは信仰と恵みによる」と言われているが、それは旧約聖書の時代から一貫して同じなんだということがはっきりと示されている。

 ここで、「義と認められた」とは、実際には人には原罪があり罪を犯してしまうので、神の前で「義」であることはあり得ないのだが、彼の信仰のゆえにそう「みなした」ということだ。法律用語でいうところの「擬制」である。

 「擬制」とは「事実に反することを事実であるかのように扱うこと。(小学館日本大百科全書(ニッポニカ))」である。例えば、民法第753条は「未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす」と規定されているが、未成年が成人としてみなされて、擬制されているので、権利能力その他も成人と同じ扱いになる。

 ゆえに、アブラムが「義と認められた」とは「義とみなされた」ということであり、実際には神の前に「義」ではないのだが、そのように神が擬制してみなしているということだ。正真正銘神の前で「義」であるのはイエス・キリスト以外にはいないのだ。

 また、ここで、信仰と救いの関係についてもアブラムの時代と今の時代とは変わらない。まず、信仰の対象は「神」である。信仰の内容は「その時代に、神から啓示された約束」である。そして、救いの方法は、「信仰により神の恵みにより、義と認められること」である。

 アブラムの時代と現在とで違いうのは、「その時代に、神から啓示された約束」の内容が変化しているという点だけである。アブラムは神から与えられた子孫の約束がそれである。現在は、福音の三要素、つまり、キリストが私たちの罪のために死なれ、墓に葬られて、3日目に復活されたというのがそれである。

 

 神がアブラムに子孫の約束を語る前に、アブラムは自分の奴隷の子のエリエゼルが相続人になるのかと神に問うている。子のない夫婦が、奴隷を養子にして、相続人にするというのは、ハムラビ法典や古代メソポタミア・ヌジ遺跡出土文書の規定にもあり、当時の慣習としては一般的なものだった。だから、アブラムはそのように発言しているのだ。

 こういった古代文化の情報はいつもながら面白い。聖書を歴史的文書としてより深く味わえる感じがする。

 

 また、今回の箇所には聖書で初めて登場する表現がたくさんある。「主のことば」、や「恐れるな」、「神、主よ(アドナイ・ヤハウェ、直訳すると「私の主、ヤハウェよ」)」、神を盾に例える最初の例としての「わたしはあなたの盾である」である。これらは聖書の中でも、キーワードになるようなものばかりであり、一挙にこの箇所で登場する。そういう意味でも、今回の箇所は非常に大きな意味をもつ箇所だ。