【感想】ルカの福音書(5)マリアの賛歌1:46~56

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 今回はルカの福音書1:46~56までです。

ここまでの文脈

 マリアは天使の御告げの後、妊娠し、親類のエリサベツを訪問した。マリアはルカの福音書1:38と1:39の間に妊娠したと思われる。

 今回は、「マリアの賛歌」と呼ばれる箇所です。これはラテン語聖書の同箇所の冒頭の単語を取って、「マグニフィカート」ととも呼ばれます。「あがめる」という意味です。これは、ほぼ全てが旧約聖書への言及と旧約聖書の引用から構成されている、4連(スタンザ)からなる詩文になっている。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 「マリアの賛歌」には極めて深い旧約聖書の知識が背景にある。
  • マリアは罪人であるという自己認識のもと、アブラハム契約の成就としてメシアが誕生することを讃えている。
  • 「メシアによる地位の逆転」がマリアの賛歌の中心テーマであり、神の御性質として歌っている。

感想・気づき

 旧約聖書への言及や引用は、解説されなければ、なかなかわからないが、知ると読みが深くなる。例えば、全体の構成はⅠサムエル2:1~10の「ハンナの祈り」に似ている。そして、「大きなこと(ルカ1:49)」とは、単に処女懐胎のことを指すにとどまらず、メシア到来の出来事、つまり救済の歴史の一部に参加することができたこと、という含意がある。ルカ1:55では、「アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに」とあり、これはイエスの誕生と将来される御業をアブラハム契約の成就として見ていることを示している。「あわれみを忘れない」とは、神の契約の忠実さについて、人間の側から観察されることを表現している。

 ここで、アブラハム契約の成就を喜んでいることは驚きだ。旧約聖書新約聖書は連続しており、分けて理解することが、いかに誤ったことかがよくわかる。「ハンナの賛歌」にしても、それを知ってるかどうかで、「マリアの賛歌」の意味合いは相当変わってくるだろう。

 マリアはこの時、婚約してすぐだったので、当時の慣習から13才前後だったと考えられる。この年齢でこれだけ旧約聖書の知識を踏まえて、対句法も使い、しかも即興で詩の形式を用いて自分の心情を語ることができるというのは、相当なものだ。

 だから、この詩の完成度の高さから、これは即興ではないかもしれないと解説されていた。「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ(ルカ1:29)」や「母はこれらのことをみな、心に留めておいた(ルカ2:51)」といったような箇所からは、マリアの思索的性質がうかがわれる。マリアは天使の御告げを聞いたあと、時間をかけて自分に起きて出来事について考えを巡らしていたのかもしれない。

 

 また、マリアははっきりと、自分は罪人であるという認識をもっていた。「私の救い主である神をたたえます(ルカ1:47)」とあるが、救い主が必要なのは、罪人だけである。マリアが無原罪であれば救いは必要ではなく「私の救い主」と言う必要はない。

 「この卑しいはしために目を留めてくださったからです(ルカ1:48)」という言葉からも、マリアは自分が取るに足りない者であるという自己認識があったとわかる。だから、メシアを胎内に宿したのは、100%神の恵みによるという認識があったはずだ。

 

 ルカ1:51~53では神は様々な地位を逆転させ、高い地位の者を引き下げ、低い地位の者を引き上げることが歌われている。これは神の御性質であるとともに、ルカの福音書全体のテーマにもなっているという。この書の以降の物語はこの神の御性質に基づいて展開していくということだ。

 マリア自身も「卑しいはしため」であったのに、神の恵みによって地位の逆転を経験した。また、このルカ1:51~53は、未来完了形という時制で書かれており、未来に起きることが、この時点で既に確定していることを表現している。イエスの公生涯は、様々な地位の逆転をもたらした。山上の垂訓やザアカイの救いなどはその典型だろう。また、イエスの死と復活も地位の逆転そのものであるし、将来的にはイエスの再臨とメシア的王国の成就により、アブラハム契約によるイスラエルへの約束も地位の逆転そのものだろう。