【感想】ルカの福音書(4)マリアのエリサベツ訪問1:39~45

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 今回はルカの福音書1:39~45までです。

ここまでの文脈

 ザカリヤヨハネ誕生の告知があり、その後マリアにイエス誕生の告知があった。また、天使は、不妊の女であった親類のエリサベツが高齢で妊娠したことが、マリアに対する御告げの「しるし」であると告げた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • マリアは妊娠すると、ユダの山地に住むエリサベツに会いに行く。
  • マリアの挨拶を聞いて、まだエリサベツの胎内にいたヨハネは喜び躍る。
  • エリサベツは聖霊に満たされ、預言的言葉を語る。

感想・気づき

 エリサベツはマリアを「最も祝福された方」、「私の主の母」と呼んでいるが、マリア自身を褒め称えるというよりは、「マリアがメシアを宿す特権に与った」ことを言っており、焦点はマリアではなく、その胎内の子(=イエス)に合わせられている。エリサベツの発言の背景には、当時、女性の偉大さは、どのような子を産んだかによって決まったということもある。マリア自身が偉大なのではなく、胎内の子のゆえに尊い存在だと認識された。

 エリサベツはマリアを「私の主の母」と呼んでいる。彼女はまだ胎内にいるヨハネが喜び躍ったことから、マリアがメシアを宿していることを悟ったのだが、これは夫のザカリヤから彼が聞いた天使の御告げを、筆談などを通して(彼は御告げの「しるし」として口がきけなくなっていた)詳細に知っていたから、そう認識できたと考えられる。ヨハネは「まだ、母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせ(ルカ1:15~16)」るからだ。

 カトリック教会では、マリアを「神の母・聖マリア」と呼ぶが、これは誤解を招く表現である。マリアは確かにイエスの母であるし、イエス人間性と神性とを持っているが、マリアが「神の母」とは言い難い。神は永遠の存在であり、子なる神もまた世界が創造される前から存在しているので、マリアが子なる神を産んだ訳ではない。人間としてのイエスとその肉体をマリアは産んだが、イエスの神性はその肉体に「受肉」したのであって、マリアが神を産んだのではない。有限な存在であるマリアが、無限かつ永遠の存在を産むことはできない。

  また、ここで「主」という言葉は原語ではギリシア語の「キュリオス」である。これは「神、支配者、皇帝」等のことを指すが、七十人訳聖書では、「ヤハウェ」というヘブル語を「キュリオス」と訳している。そして、ルカは、イエスを指す言葉として「キュリオス」を採用している。つまり、「イエスヤハウェ」だ、という認識のもとに、ルカの福音書は記されている。

 

 エリサベツは「聖霊に満たされた(ルカ1:41)」。「聖霊の満たし」とは、人が聖霊支配下に置かれるということである。ペンテコステ以前は、信者は特定の目的のために聖霊の支配をうけたが、現在(ペンテコステ以降)は、信者の内に聖霊を継続して内住するようになった。エリサベツは預言的言葉を語るために、聖霊に満たされたのだ。

 現在のクリスチャンは、福音を信じた瞬間に聖霊がその身に宿る。これは実感の有る無しに関わらず、そのような教理になっているので、そう信じるべき内容だ。だから、「聖霊を得よ!」という命令はあり得ない。一方で、「聖霊に満たされなさい(エペソ5:18)」という命令はある。これは、上述のとおり、聖霊支配下に自分を置き、人生を聖霊に委ねなさいという意味になる。長時間祈ったり、多額の献金をしたら、なにかスピリチュアルなエネルギーに満たされる、というようなことでは決してない、ということだ。