【感想】創世記(33)—イサクの奉献—

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 今回は創世記22:1~19までです。

ここまでの文脈

 アブラハムにはこれまで何度か転機(危機)が訪れた。父の家であるウルを出たこと、ロトと別離したこと、イシュマエルを追放したこと、これらの転機を乗り越える度に少しずつアブラハムは信仰的に成長し、同時にアブラハム契約の内容も明らかになっていく。

 今回のイサクの奉献は4度目の転機にあたり、アブラハムの人生のクライマックスにあたる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 神からアブラハムに、ひとり子イサクを捧げよと命令が下り、アブラハムの中に復活信仰が芽生え始める。
  • アブラハムはモリヤの山でイサクに手をかけようとした時、神が介入し、アブラハムは代わりに雄羊を全焼の生贄として捧げる。
  • アブラハムの信仰がその行為によって証明されると共に、アブラハム契約の内容が再確認される。

感想・気づき

 アブラハムがイサクを捧げようとした時、イサクの年齢はすでに30代に差し掛かっていた。だから、アブラハムが何をしようとしているかはわかっているし、抵抗しようと思えばできたはずにも関わらず、無抵抗でアブラハムに縛られて、半ば自ら祭壇の上の薪の上に載せられたのだ。これはイサクの、父親に対する絶対的な信頼があってのことだろう。父アブラハムの神への信仰、息子イサクへの愛、イサクはどちらも絶対的に信じていたのだ。

 アブラハムは、神からイサクの奉献に関する命令を受けた時、「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて・・・(創世記22:2)」と神の言葉を聞いたが、原語では「あなたの子、ひとり子、あなたの愛している子、イサク」という順番になっている。少しずつ対象を絞っていって最後にイサクだと特定するという形になっている。アブラハムの心境たるやいかなるものであっただろうか。「あなたの子」から段々と「イサク」へと対象が絞られるに従って、心が締め上げられるように感じただろう。

 ユダヤ教のラビ的伝承ではこの箇所で以下のようなアブラハムと神とのやりとりがあったとされている:

 ①「あなたの息子を連れて」。「私にはふたりの息子がおりますが」

 ②「ひとり子だよ」。「それぞれが母親にとってはひとり子ですが」

 ③「あなたの愛している子だよ」。「私は両方とも愛していますが」

 ④「イサクだよ」。

このだんだんとアブラハムの心中に迫っていく感じがなんともうまく表現されている。非常に面白い伝承だ。

 アブラハムは神のこの命令に対して、非常に悩み苦しんだだろう。神の命令は絶対であることはこれまでの失敗から学んでいたが、やっと授かったひとり子を自らの手で殺せという命令に煩悶したはずた。しかし、アブラハムは神が「イサクにあって、あなたの子孫が起されるからだ(創世記21:12)」を信じており、もしイサクが死んだら、神が復活させない限りこの約束は成就しないと気がついた。ここでアブラハムはイサクが復活するという信仰を得たのだ。そして、その翌朝早くにモリヤの山へ向けて出発した。

 

 イサクは父アブラハムとおよそ3日の旅を経て、全焼の生贄を捧げるモリヤの山に到着した。その間、イサクは自分がその上で焼かれることになる薪を自ら背負って歩いた。また、アブラハムは自らのひとり子を殺すための火と刀とを手に握り進んでいった。これらの出来事は、メシアが自らが張り付けにされる十字架を背負って歩まれ、父なる神が御子を犠牲にされたことの型になっている。

 イサクの奉献に関するラビ伝承では:
 アブラハムが刀をイサクの喉に当てた時点で、イサクの魂は肉体を離れ、神の声があってからその魂は肉体に戻ったとされており、アブラハムが最後まで手をかけずともイサクは一度死んで復活されたとされている。

 つまり、ラビ的伝承の中にはひとり子の復活という概念があるということだ。ここに、将来ユダヤ人がイエスがメシアであり、十字架の死と復活を遂げたことを信じる素地がある。

 

 イサクの奉献はアブラハムの人生のクライマックスだが、それはすなわち聖書のクライマックスでもある。これに相当するのはイエスの十字架の死と復活だが、イサクの奉献はまさにその型なのだ。