【感想】創世記(8)—アダム契約—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年7月28日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回は創世記3:14~3:24までです。

ここまでの文脈

 創世記には11の区分(トルドット)がある。第1のトルドットには、人類の創造から堕落とエデンの園からの追放が描かれている。このトルドットの終わりには、「非常によかった」被造物が、カオスへと回帰していく。

 また、最初、神と人とが結んだエデン契約は「条件付き契約」だったが、堕落後に結ばれたアダム契約は無条件契約だった。

 創世記の記事は、神話や伝承ではなく、歴史的事実として読み取る必要がある。

今回のメッセージを要約すると

  • 神は、蛇とサタン、女、人とに対してアダム契約(無条件契約)を結ぶ。
  • 人(アダム)は、女を「エバ」と命名する。
  • 神は、アダムとエバとを、エデンの園から追放する。

感想・気づき

 エデンの園から追放されたアダムとエバとが感じた後悔は、如何ほどだったのだろうか。アダム契約により、夫婦関係は難しいものになるし、アダムは労働が苦痛を伴うものになり、エバも生みの苦しみ、月経の苦しみが増した。さらに、まだ先の話になるが、後に生まれてくる子供たちは、互いに殺し合うようになり、弟を殺したカインは、土地を追われて親元から離れて暮らすようになる。これらの非常に深い苦痛と苦悩をアダムとエバに与えたことだろう。

 しかし、彼らは自分たちのした選択を、自ら引き受けて生きていくしかなかったのだ。そして、その人生を生き抜いて全うしたのだろう。ただ、神は皮の衣を、追放に先んじて用意してくれたし、アダム契約の中にはすでに「原福音」が語られていた。人の罪を覆う衣と、罪から解放される福音を神は先に与えてくれていた。だから、アダムとエバは、希望を失わずに生きていくことができたのだろう。

 

 「皮の衣」は動物を殺して、神が用意したもので、「血の犠牲」(生贄)の最初のものだった。アダムとエバとは、この動物の死を目撃し、自分たちの肉体的死を予感したことだろう。この衣は人の「罪」を覆うものであり、マタイ22:11で「婚礼の礼服」、目次六7:9~10で「白い衣」と呼ばれているものと同じだ。そして、なにより、神の子羊であるイエス・キリストの犠牲の死を予表している。

 また、創世記3:15の「原福音」と呼ばれる箇所で「彼は、おまえの頭を踏み砕き」とあるのも、イエスがサタンに十字架の死を通して打ち勝つことを預言している。

 

 アダムとエバの人生の苦難は、私にとっては非常に慰めになる。自分自身の人生の今までの様々な後悔。何度も思い返しては悔やみ、それらから自由にはなれないと感じている。しかし、彼らがそうであったように、自らの選択を自分で全て引き受けて生きていくしかないのだろう。そのこととしっかり向き合い、しかし、絶望しないためには、福音が必要だと思う。私の身代わりに十字架について、罪を贖ってくださったイエス・キリストの恵みと救いを知らなければ、自分自身を直視することはできないと私は感じている。

 

 神が二人を追放した理由は、人が神のようになり、自分で善悪を判断し、選択するようになったから。また、「いのちの木の実」を食べて、罪の状態のまま永遠に生きることのないようにするため。「罪」とは、神を信じるのではなく、自分中心に物事を判断し、選択することだ。アダムとエバは「罪」の状態で、追放された。これが「原罪」を負っているということだろう。私たちもまた「罪」の状態で生まれ、すなわち「原罪」を負っている。

 イエスを信じ、「罪」が赦されたたとしても、「原罪」という性質を持っているので、繰り返し「罪」を犯し続ける。悔い改めて、神に告白することで赦しは得られるが、「罪」を犯した事実は消えないし、後悔も残るだろう。しかし、自身の「原罪」と今まで犯した「罪」とに向き合って生きていくことはできるのだ。