【感想】神の国と悪魔の国(パートⅡ.旧約時代6章 バベルの塔)

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これまでの話

 このシリーズでは、「神の国と悪魔の国の葛藤」というテーマを軸に、聖書を読み解く。このテーマは、聖書の歴史哲学の中心である。

 サタンは自身の悪魔の国を造ることを達成したかに思えた。しかし、実際には神は直ちにサタンを滅ぼすことができたがそうはせず、創世記第3章15節で福音の原型を示した。

 カインとアベル事件とセツの誕生以降、サタンは堕天使と人間との雑婚を進めて、人類の堕落を推し進めた。

今回のメッセージを要約すると

  • 大洪水で、箱舟に入ったノア一家以外の人類は滅び、ノア契約を通じてノアは第二のアダムとして位置づけられ、人類の歴史が再び始まった。
  • ノア契約により、死刑制度と人間政府が創設された。
  • バベルの塔事件により、それまで一つの言語だった人類は多言語になり、言語グループごとに散らされた。

感想・気づき

 ノア契約では、死刑が定められている。「人の血を流すものは、人によって血を流される(創9:6)」というのがそれである。また、この死刑制度を合法的に実行するためには人間政府の存在が必要となるため、言外に人間政府の創設も意味しているとされている。

 また、神は虹がノア契約のしるしであるとされた。ノアは人類の歴史上初めて虹を見た(大洪水が起こるまでは、気候が現在と全く違ったので虹を観測することはなかった)。現在でも虹は自然現象として観測されるので、ノア契約は今も有効である。この契約は無条件契約であり、破棄されることなく続いている。

 

 バベルの塔の「バベル」という言葉は「神の門」という意味である。この「天に届く塔」を作ろうとしたのは、占星術を行い、神の領域に届こうとしたのである。これは誤った宗教の原型である。この塔はこの誤った宗教を創設する目的で建てられたのである。

 バベルの塔を建てた指導者であるニムロデは、のちにバビロンの主神であるマルドゥクとして崇められるようになる。マルドゥクは、メロダクやベルとも呼ばれている。

 神が「人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた(創11:5)」という言う時、これは擬人法を用いて神の行動と思いを、風刺的に表現している。人が天まで届く塔を建てようとしても、それは所詮神からしたら、降りてこなければ見ることはできない。人が神の高みに届くことは不可能であり、そう考える事自体が人間の側の傲慢、プライドから出てくることで、人間の根本的な罪である。

ナザレの出来事はイスラエル全体に起きる【感想・備忘録】ルカの福音書(17)ナザレでの伝道4:14~30

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ここまでの文脈

 イエスは、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受け、その際天から聖霊が下った。そして、聖霊はイエスを荒野に導かれて、悪魔の試みに遭わされた。イエス聖霊の力によって、悪魔の試みに勝利し、伝道活動を開始する。

 また、ガリラヤでの伝道には、メシア性を証明することと、弟子たちを招くこととの2つの目的があった。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスガリラヤ一体で伝道を始め、人々から好意的に迎えられた。
  • ある時、イエスはナザレの会堂で、自身のメシア宣言と異邦人が救いに招かれることとを語った。
  • メッセージの内容に怒った人々はイエスを崖から突き落として殺そうとするが、イエスは難を逃れ、ナザレを去っていった。

感想・備忘録

 ルカ4:14で「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」が、これは御霊=聖霊の力によってガリラヤ伝道を始められたことを示している。本来神であるイエス聖霊の力がなくとも、自身の神性により全てのことを行うことができたはずだが、敢えて無力な一人の人間として、聖霊の力に自らを委ねられたと考えられる。

 クリスチャンとしては、ここから教訓を学ぶことができるだろう。自分自身の力ではなく、内に宿る聖霊に委ねてことを始めるべきだ。この聖霊の力による伝道というモチーフは、ルカの福音書の続編である、使徒の働きにおいても継続される。今度はイエスご自身ではなく、12弟子たちがイエスと同じように聖霊の力に動かされて伝道をすることになる。

 

 イエスは、ナザレの会堂でイザヤ書を朗読し、メッセージを語ったが、これはこの会堂の会堂管理者の判断で行われたものだろう。

 当時の会堂では、トーラーの朗読、預言書の朗読、奨励(説教)という順番が一般的だったが、朗読も奨励も会堂管理者の判断のもとに行われていたからだ。トーラーの朗読は毎週の朗読箇所が事前に決まっており、預言書はその週のトーラーの朗読箇所に関連する箇所が読まれることになっていた。

 イエスイザヤ書61:1〜2aを読まれた。この箇所はメシア預言として理解されていたが、これがこの週の朗読箇所だったのか、イエスが別に選んで読んだのかはわからない。この箇所を読んで、イエスは自身がこの預言の成就であると言われた・

 この箇所はメシア預言であるが、イエスイザヤ書61:2b「われらの神の復讐の日を告げ、」という部分は読まなかった。実はイザヤ書61:1〜2aは初臨のメシアのことを、2bは再臨のメシアのことを預言しているからだ。しかも、この再臨の預言は患難期の預言である。しかし、当時ローマの圧政に苦しんでいたユダヤ人は、メシアの到来とメシア的王国の成就を熱望しており、「神の復讐の日」とはローマに対するものだと解釈していた。

 だから、イエスがこのイザヤ書61:2bを読まなかったことは、ナザレの人々にとっても不満の残ることだった。その上、イエスは救いがユダヤ人ではなく、異邦人にもたらされることを示唆する箇所を旧約聖書から引用した。だから、人々は怒りに駆られてイエスを殺そうとした。

 

 ルカはイエスの公生涯の伝道活動の初めにこのナザレの出来事を書いているが、これはナザレで起こったことは、イスラエル全体でも起こるということを示唆している。ナザレは2度もイエスを拒否する。そして、「突き落としの崖」事件は、イエスの死を予感させるものだ。これらはルカは、ユダヤ人によるメシアの拒否と、そこから異邦人が救いへ招かれることをテーマにしているためだ。

バプテスマのヨハネの信仰の揺らぎ【感想・備忘録】30日でわかる聖書 マタイの福音書(11)

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ここまでの文脈

 イエスは12使徒を派遣し、宣教活動を拡大している。

 ここで、バプテスマのヨハネが登場し、それを機会に2つのテーマについてイエスは論じる。1つはリーダーはいかにあるべきか、もう1つはどういう人が救われるかとうことである。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 獄中のバプテスマのヨハネは不安にかられ、イエスに質問を送り、イエスはそれに答える。
  • エスは弟子たちに、良いリーダーと悪いリーダーの違いを教える。
  • また、救われる人と救われない人との違いを教える。

感想・気づき

 マケラスの砦に幽閉され、獄中にあったバプテスマのヨハネは、イエスの活動について弟子たちから様々なことを聞いていたが、自身が理解していたメシア像と大きく違うので、不安を抱いていた。

 イエスの宣教活動は、成功しているとは言い難く、ユダヤ人の指導者たちからも拒否されていた。また、ヨハネの理解(及び当時のユダヤ人の一般的理解)では、メシアが現れたらただちにメシア的王国が建てられ、メシアが宗教的にも政治的にもユダヤ人の王となるはずだった。しかし、イエスが活動を始めているのに、その気配はないし、ヨハネ自身も獄中に捕われたままである。

 こういった事情からヨハネは不安を感じ、弟子を通じてイエスに「おいでになるはずの方はあなたですか(創11:3)」と質問を送ったのだ。

 

 ヨハネの不安の原因は、旧約聖書で預言されているメシアの来臨は2度あることを理解していないことにある。これは12使徒達も全員理解していないことだった。使徒たちだけでなく、当時のユダヤ人は誰一人として理解していなかったのであろう。

 今の時代は、新約聖書があるので、メシアの初臨と再臨とについて明確に理解することができるが、旧約聖書においてはメシアの来臨について初臨と再臨とが一緒くたに預言されているので、当時のユダヤ人達にはそのことが理解できなかったのだ。

 

 ヨハネの不安に対して、イエスは私の行っていること、見聞きしたことをヨハネに伝えなさいとヨハネの弟子たちに答えている。ここでイエスは、イザヤ書35:5〜6、61:1を踏まえて、イエスがメシア的奇跡を行っていることをヨハネに伝えようとしている。

 バプテスマのヨハネは、イエスが「女から生まれたものの中で」最も偉大な者と評価されている。これは旧約聖書の聖徒の中で最高の人物という意味だが、そのヨハネですらも、イエスに対する信仰に揺らぎが生じた。現代を生きるクリスチャンにとっても、真剣に信仰を持つほど、神に対する疑心暗鬼や自身の信仰に対する疑問が湧いてくるものだ。ヨハネの不安に対して、イエスは怒ったりせずに寛容に答えている。この場面は新約時代のクリスチャンにとっても大いに適用できる内容だろう。

 

 ヨハネの質問への回答に続いて、イエスは良いリーダーと悪いリーダーについて弟子たちに教えている。

 ここで、「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています(創11:11)」と表現されているが、ここで「激しく攻めている」のは、主にパリサイ人とサドカイ人のことだ。彼らが旧約聖書に預言されていたメシアと、メシア的王国を拒否し、人々から天の御国を奪い取っていると比喩的に説明しているのだ。

 また、「笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸を叩いて悲しまなかった(創11:17)」と言っているのは、ここでも笛を吹いて歌を歌っているのは、パリサイ人とサドカイ人のことである。彼らがヨハネやイエスを自分たちの思うように操ろうとしたが、うまくいかなかったので彼らを拒否したことを表現している。「この時代」とあるのは、「メシアであるイエスを拒否する時代」という含意があるのだろう。

約束の地に留まり続けたイサク【感想・備忘録】創世記(39)—イサクの歴史—

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ここまでの文脈

 創世記の第8のトルドットは、創世記25:19〜35:29で「イサクの歴史」。

 このトルドットの中で、イサクが主役になるのは、今回扱う創世記26章だけである。創世記25章はアブラハムの死とヤコブの紹介、第27章からはヤコブの物語に変わる。イサクは第26章の前ではアブラハムの息子として、第26章の後はヤコブの父として紹介されるにとどまる。

 イサクはどちらかというと受け身であり、ドラマには欠ける人物だった。生涯の殆どをネゲブの砂漠で過ごし、アブラハムヤコブの橋渡しとなった。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の中では最も長寿であり、確かな信仰を持って、アブラハム契約の継承者として生きた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • イサクの時代、再び大きな飢饉が起こり、ゲラルの地に下ったが、ここでイサクは神からアブラハム契約の再確認の啓示を受ける。
  • ゲラルの地で次第に力と富を蓄えたイサクは、ゲラルの王・アビメレクから、出ていくように命じられる。
  • ゲラルの住民から何度も嫌がらせを受けながらも、イサクは神の祝福のもと、新しい地に拠点を構え、乞われてアビメレクと平和条約を結ぶ。

感想・備忘録

 アブラハムは生涯、約束の地にとどまった。飢饉が起きてもアブラハムのようにエジプトまでは下らずに、約束の地の中にあるゲラルまででそれ以上は下らなかった。

 約束の地に留まることは、アブラハム契約において個人的祝福を受けるための土台である。神は「エジプトへ下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。・・・わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する(創26:3)」と言っているからだ。イサクは約束の地に留まり続けた。その結果、「主は彼を祝福され・・・富み、ますます栄えて、非常に裕福になった(創26:12-13)」。

 この約束の地に留まることは、新約時代のクリスチャンにとっては、イエス・キリストを通した契約を信じることと等しい。イエスの十字架の下に留まる、というのは新しい契約を信じその契約条項の中で物事を考え、解釈することだ。そこに留まる限り、イサクが祝福されたように、クリスチャンも神からの祝福に与ることができるはずだ。

 

 また、ゲラルの地で遊牧だけでなく、農業も新たに始めたイサクは上述のように非常に豊かになった時、ゲラルの地の王・アビメレクから、その力を恐れられ、出ていくように命じられる。この「アビメレク」というのは、エジプトの「パロ」のように、この地で使われた王を指す称号である。

 この時、イサクは一切争わずに出ていく。その後も井戸を掘るたびに三度も妨害に遭ったが、その度に争うことはせずに場所を変えていく。神から約束の地の所有権を約束されたイサクが、その地を追われて放浪するのである。

 イサクからしたら、神からの約束があるので、土地の所有権を持っているのは自分だとういう意識はあったのであろうが、その約束が成就されるのは神のタイミングによるということもまた理解していたのであろう。神の時が来たら、必ず自分の土地になるのだという確信を持ちつつ約束の地の中を放浪したというのは、現代のクリスチャンにとっても大いに参考にすることができるだろう。

 実際、アブラハム、イサク、ヤコブはその人生の中で土地の約束が成就するのを見なかった。しかし、イエス福音書の中で語っているように、メシア的王国が成就した際には、彼らは復活して土地の約束の成就に与るのだ。

マタイ10章の宣教命令は時限律法【感想・備忘録】30日でわかる聖書 マタイの福音書(10)12使徒の派遣

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 今回はマタイの福音書9:35~11:1までです。

ここまでの文脈

 バプテスマのヨハネの洗礼以降、イエスの公生涯が始まっている。

 人々のイエスに対する態度は3種類だった。ユダヤ人指導者たちはイエスを拒否し、イエスラエルの残れる者(レムナント、真の信仰者)はイエスを受け入れ、その他の多くの民衆は判断を迷っている。

 そんな中で、イエスは12弟子を使徒に任命し、「イスラエルの家の失われた羊たち」のところへと派遣する。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスは12弟子に悪霊払いの権威を授け、使徒としてユダヤ人の中へ派遣する。
  • この時の福音は「御国の福音」であり、宣教命令の内容は時限律法的な命令である。
  • また、イエスは宣教にあたっての警告、弟子としての心構え、励ましの言葉を与える。

感想・気づき

 マタイの福音書第10章の大宣教命令は、時限律法であり、そのまま現在でも有効な命令と解釈することはできない。まず、異邦人の町、サマリア人の町に入るな、ユダヤ人だけに伝道しろと言っている。また、一切の金銭的準備をしてはいけないし、着替えの下着も持っていってはいけない。これらの命令をそのまま現在でも守るべき命令として解釈するならば、まずユダヤ人以外の人に伝道できないし、ほとんどの宣教師は各教団のバックアップを受けているので、これらも聖書に反しているということになってしまう。

 そもそも、この時に伝えられた福音は「御国が近づいた」とういバプテスマのヨハネと同じ内容の福音だ。「十字架の福音」はイエスが実際に十字架で死んで復活して以降にしか伝えられていない。また、伝道しても耳を傾けなければさっさと次へ行けというのも現在では当てはまらないだろう。

 

 イエスは弟子たちに、「蛇のように賢く、鳩のように素直」であるよう警告している。これは現在に適用できるクリスチャン生活のヒントだと思う。しかし、これは実行するのは簡単ではないように思う。やはりイエスが数多いる信者たちから選りすぐった12弟子であるからできることのような気がする。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直」というのは、岡田斗司夫氏が主張している「いい人戦略」にも近いように思った。岡田氏はあくまで「いい人のように振る舞う」ことを推奨しており、「鳩のように素直」というのは「実際にいい人であるように」ということだと思うので、そこが根本的に違うが、「蛇のように賢く」という部分は共通しているだろう。

 しかし、クリスチャンだからといって全員が心が素直で真っ直ぐなわけもないだろうから、まずは「いい人戦略」を採用しつつ、日々の祈りなどを通じて聖化の道を歩み、長い時間をかけて「実際にいい人」に近づいていく、というのが良いように思う。こう考えれば、「いい人のように振る舞っている」だけの期間も罪悪感をあまり感じずに入れるだろうし、聖化によって徐々に自分自身の心が変えられていくという確信があれば、自分は上辺だけを取り繕っているという自己嫌悪にも陥らなくて済むだろう。

 あまり頑張りすぎずに気長に聖化の経過を喜び楽しめるようなクリスチャン・ライフを過ごしたいものだ。

【感想・備忘録】創世記(38)—エサウとヤコブの誕生—

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 創世記は11のトルドットに区分される。

 第6のトルドットは創世記11:27〜25:11で、「テラの歴史」。これは「テラのトルドット」ということで、「テラの子孫がどうなったか」という意味になるので、具体的にはアブラハムとイサク、イシュマエルを描いている。

 第7のトルドットは創世記25:12〜18で、「イシュマエルの歴史」。メシアの家系から外れるイシュマエルの子孫たちについて短くまとめている。

 そして、第8のトルドットは創世記25:19〜35:29で、「イサクの歴史」。これはイサクの双子の子どもであるエサウヤコブが主人公である。

今回の聖書箇所を要約すると

  • イサクの妻・リベカは双子を妊娠中に神から預言を受け、双子がそれぞれ別の国民になることと、兄が弟に仕えるようになることを知る。
  • 双子の兄・エサウは巧みな狩人、「野の人」となり、弟・ヤコブは「天幕に住ん」で、羊飼いとなった。
  • ある時、猟で疲れ空腹を覚えたエサウは、豆の煮物と引き換えに長子の権利をヤコブに売ってしまう。

感想・備忘録

 リベカが受けた預言は、並列法 (parallelism) という形式で書かれたヘブル語の詩になっている。

二つの国があなたの胎内ににあり、

二つの国民があなたから分かれ出る。

一つの国民は、もう一つの国民より強く、

兄が弟に仕える。(創世記25:23)

 1行目と2行目で同じことを言い、3行目と4行目で同じことを言っている。各ペアがパラレルで並列されているので並列法だ。ヤコブからはイスラエル民族が生まれ、エサウからはエドム人が生まれる。そして、やがてエドムはイスラエルの奴隷となる。

 

 エサウは「巧みな狩人、野の人(創25:27)」になったが、「巧みな狩人」という表現は創世記第10章に登場するニムロデを連想されるもので、創世記の文脈では否定的な意味を持っている。また、「野の人」となるというのは、家族の絆の外で生きることを選んだことを意味しており、エサウは家族への忠誠などを捨てた男として描かれている。

 一方ヤコブは「穏やかな人」と表現されているが、「穏やかな」というのは原語のヘブル語では「タム」とう語である。これは「正しい」とか「完全」とかいう意味で、例えばヨブ記1:8や22:3ではヨブに関して「正しい人」と、創世記6:9ではノアに関して「正しい人」と表現するのに使われている。また、詩篇18:25では神と人に関して「全き」と表現している。また、人に関して「完全」というのは「罪がない」という意味ではなく「神に対する姿勢が正しい」という意味合いであり、義人であることを意味している。

 この「タム」というヘブル語がヤコブについてのも、「穏やかな」と訳されているのは、伝統的にキリスト教ではヤコブの性質を悪いものとして扱ってきたということが影響しているのだろう。しかし、実際には聖書ではヤコブのことを高く評価し、エサウの評価は極めて低い。そして、ユダヤ人の中にあってもヤコブの評価はやはり高いのだ。

 また、ヤコブは「天幕に住んでいた」が、これは羊飼いという家業を継ぎ、家族という絆の中で、責任を果たして生きることを選んだことを示している。アブラハム、イサクの道に従っていくということだ。

 エサウが「狩人」で「野の人」であったことと、ヤコブが「タム」で「天幕に住んでいた」こととはそれぞれ対照的な性質を表現している。

 

 エサウは狩りに疲れて空腹になったというだけの理由で長子の権利をヤコブに売ってしまったが、これはエサウが神から与えられたアブラハムの家系の祝福を軽視していたことを示している。それゆえエサウはヘブル書12:16で「俗悪な者」と評価され、マラキ書1:3で主は「わたしはエサウを憎み」と預言されている。

悪魔は誘惑し、神は試す【感想・備忘録】ルカの福音書(16)荒野の誘惑4:1~13

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ここまでの文脈

 イエスは、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けた。ヨハネバプテスマを通じて、メシアの本質が明らかになった。メシアの本質は、神の子であり主のしもべであるということだ。

 その次に、挿入区としてイエス系図が紹介された。この系図は挿入区なので、実は今回の荒野の誘惑は、ヨハネバプテスマと連続した出来事である。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 荒野で、イエスは悪魔から誘惑を受ける。
  • エス申命記を引用し、悪魔の誘惑を退ける。
  • 荒野の誘惑を通じて、イエスは、アダムの失敗、イスラエルの失敗、人類全体の失敗を償った。

感想・備忘録

 イエスヨハネバプテスマのあと、聖霊が下り、聖霊の力によってメシアとしての働きを始める。そこで荒野の誘惑に遭う。

 「四十日間、悪魔の試みを受けられた(ルカ4:2)」という箇所の「試み」はギリシア語で「ペイラゾウ」という語で、「誘惑する (tempt)」と「試す (test)」という2つの意味がる。イエス聖霊により荒野に導かれ、悪魔から誘惑を受け、それは同時に神から試された。聖霊の働きによりイエスはメシアとして働くが、同時に荒野へも導いたのだ。

 

 悪魔はイエスを誘惑したが、イエスは全て申命記から引用して誘惑を退けている。「霊的戦い」を強調するキリスト教の教派教団があるが、荒野の誘惑は「霊的戦い」の教科書と言える。異言で祈るだとか、悪霊を縛るだとかという牧師もいるが、イエスは聖書を深く知り、御言葉を引用することで悪魔の誘惑を退けているのだ。これが王道だ。

 悪魔は詩篇91:11〜12を引用して、神殿の屋根の上から身を投げてみろと試みる。これは奇跡のパフォーマンスで衆目の注目を集めて、メシアとして認めてもらえばどうか、という誘いである。しかし、この引用箇所は「あなたのすべての道で」という限定がある。これは神の御心の道を歩む人への守りの約束なのであって、個人的な欲求のために適用される箇所ではない。

 この文脈を無視した聖書の引用が悪魔の手管だった訳だが、これは現代のカルト的な教会にもそのまま当てはまる。前後の文脈を無視して、聖書を都合よく切り抜いて信徒に献金をすれば経済的な繁栄が約束されると言ったり、誤った聖書理解を植え付けたりといった具合だ。このてのカルト教団や教えは荒野の誘惑の悪魔と同じということだ。