公的な癒やしと私的な癒やしを使い分けるイエス【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(9)

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ここまでの文脈

 マタイの福音書第8章では、5種類の癒やしを見て、そこからイエスのメシア性を証明した。今回のマタイの福音書第9章は5種類のパリサイ人との論争からイエスのメシア性を証明する。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスとパリサイ人たちは5種類の論争を繰り広げる。
  • これらの論争の中で、サンヘドリンのメシア運動評価は「観察の段階」から「審問の段階」へと移行する。
  • エスは、一貫して口伝律法に基づくパリサイ的ユダヤ教を拒否している。

感想・気づき

 マタイの福音書9:1〜8で描かれる中風の人の癒やしでは、パリサイ人は「心の中で」イエスの癒やしに対して批判する。これはサンヘドリンのメシア運動の評価の段階がまだ「観察の段階」なので、イエスに対して直接声を発して問いただすことが禁じられているからだ。マタイの福音書9:11になると、パリサイ人たちは弟子たちに対して直接質問しているので、これは「観察の段階」から次の「審問の段階」に移行したことを示している。

 このサンヘドリンのメシア運動の評価方法を知っていると、バプテスマのヨハネやイエスの活動に対するパリサイ人たちの応答の仕方の意味がわかって大変面白い。

 また、イエスは中風の人の癒やしの際に「あなたの罪は赦された」と言っている。この発言は原文のヘブル語でも動詞が受動態で書かれているのだが、旧約聖書で神の赦しが受動態で記されているのはレビ記第4章から第6章のみで、ユダヤ教の伝統ではこれはメシアの業を指すとされていた。だから、イエスが「あなたの罪は赦された」と言った途端に、パリサイ人たちは心の中で「神を冒涜している」と思ったのだ。

 

 イエスがマタイを招命したあと、マタイの家で救われたことを祝う宴会が行われた。宴会には取税人と罪人(=娼婦)ばかりが出席していた。当時、取税人は、ローマ帝国から入札によりその権利を得ていたが、ユダヤ人社会の中では、ローマの手先として働く売国奴であり同胞を搾取して私腹を肥やしていると考えられており、ユダヤの律法によって共同体の交わりから追放されていた。それゆえ、取税人同士か娼婦としか接することができなかったのだ。

 イエスはパリサイ人から、なぜ取税人や罪人と食事をするのかと問われた際に、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です」、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答える。

 「いけにえ」は外側に出た行為のことを指しており、律法主義的生活を言っている。「あわれみ」は内面的な、行為の背後にある動機を指している。イエスの教えは一貫して、行為そのものではなく、その動機を重視し、自らの罪に向き合っている人に対して語りかけている。

 

 イエスが、ふたりの盲人を癒やした際、イエスは公の場では癒やさずに、盲人の家に入って私的な場所で癒やしを行った。公衆の面前で癒やさないのはユダヤ人社会の指導者達(サンヘドリンのパリサイ人)がイエスのメシア性を拒否しているからだ。

 そして、私的な癒やしでは、癒やしを求める人の信仰が必要なので、イエスはそれを確認して癒やした上で、この癒やしを秘密にしていおくよう求める。私的な癒やしはイエスのメシア性を証明するために行われるものではないし、この程度の癒やしではすでにパリサイ人たちからメシア性を拒否されているからだ。また、イエスが政治的メシア像を民衆に期待されることを嫌ったということも理由だ。

 これに続く口のきけない人からの悪霊の追い出しは、盲人の癒やしよりも難易度が高く、メシアにしかできない癒やしだと当時のパリサイ的ユダヤ教が教えていた。だから、イエスはこれひついては再び公の場で癒やしを行ったのだ。

アブラハムの終活【感想】創世記(37)—アブラハムからイシュマエルのトルドットへ—

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 創世記は11のトルドットに区分される。創世記11:27以降ずっと第6のトルドットを見てきた。第6のトルドットは「これはテラのれきしである」。今回、創世記25:11でこの長いトルドットが終わる。ここで、いよいよアブラハムの歴史が終わりを迎える。

今回の聖書箇所を要約すると

  • アブラハムは新たな妻・ケトラを迎え、更に6人の子を設けた。
  • 生前に子ども達に財産分与を済ませ、イサクから他の子ども達を遠ざけた後、175歳でアブラハムは死んで、マクペラの墓地に葬られた。
  • イシュマエルの12人の子ども達は、ほぼアラビア半島全域に広がっていった。

感想・気づき

 アブラハムはイサク以外の子ども達には、「贈り物を与え、自分が生きている間に、彼らを東の方、東方の国に行かせて、自分の子イサクから遠ざけた(創24:6)」。アブラハム契約の継承者はイサクだったので、アブラハムは全財産をイサクに与えた。だから、自分の死後、息子たちの間で争いが起きないように生前に財産分与を行い、問題を解決した。

 このイサク以外の子ども達の子孫たちの中には、将来イスラエルの12部族と敵対的な関係になる者たちもいるし、実際に戦争も起こっている。アブラハム契約のことは恐らくイサク以外の子ども達にも、アブラハムは伝えていただろうし、「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される(創12:3)」というアブラハム契約の祝福の条項については、特に強調して伝えていたはずだ。にも関わらず、将来イサク、ヤコブの子孫たちと敵対関係になってしまうというのはどういうことだろう。さらに、このイサク以外の子ども達の子孫の中には偶像崇拝に陥ってしまう部族もいる。

 こういったことは聖書で詳しく語られていないので、事実そういうことが起きたのだということ以上に理由を詮索してもあまり意味はないのだろう。聖書のほかの箇所でも親は立派だが、子どもはろくでなしで神に背いた生き方をしている例が色々と出てくるように思うが、親がいくら立派な人物であっても、それで子どもが上手く育つとは限らないということだろうか。子どもは親とは別の主体的な人格をもった人間であるので、それは十分にあり得ることか。聖書の記述のリアリティー・歴史性というのはこういうところからも感じられるなと思う。

 

 創世記25:12〜18は第7のトルドットで、第6のトルドットに比べて非常に短い。「イシュマエルの歴史」とあるので、これはイシュマエルの子孫がどうなったかという歴史のことである。

 イシュマエルからもまた、12部族が出た。これは「イシュマエルについては・・・わたしは彼を祝福し・・・彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼らを大いなる国民とする(創17:20)」と神が約束したことの成就である。また、彼らの居住したエリアが北はユーフラテス川から、南は紅海まで、西はシナイ半島の北から、東はバビロンの西側国境までであり、ほぼアラビア半島全域にわたる。この地理的分布は、イシュマエルの子孫がアラブ人であるという証拠になっている。

 「彼らは、すべての兄弟たちに敵対していた(創25:18)」とあるが、これは創世記16:12の成就である。一方で祝福すると約束し、一方で互いに敵対すると約束し、その両方が成就しているという点が面白い。

 また、イザヤ書19:23〜25では、中東全域でアブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰が起こると預言されている。この預言は将来的にはアラブ人も全て聖書信仰を持ち、救われるようになるという預言だと解釈されている。当時はイスラム教はまだ影も形もなかった訳だが、現在イスラム教を信奉している中東のアラブ諸国もその内変わるだろうと預言されているということだ。

マリアの系図【感想】ルカの福音書(15)イエスのバプテスマとイエスの系図3:21~38

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 イエスの公生涯は、バプテスマのヨハネの登場から始まった。

 ヨハネは、「荒野で叫ぶ者の声」として人々の心を整える働きをしていた。そこに、イエスが登場し、ヨハネからバプテスマを受ける。

 そして、次にイエス系図が紹介される。

今回の聖書箇所を要約すると

感想・気づき

 バットコル(父なる神の声が直接人々に聞こえる現象)で、父なる神はイエスについて、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)」と言う。これは、前半は詩篇2:7、後半はイザヤ書42:1の引用になっている。これらの箇所は、捕囚からの帰還後の中間時代において、メシア預言であるとユダヤ教は考えてきた。それぞれ、前半がメシアが神の子であることを、後半がメシアが主のしもべであることを示している。この言葉を通じてイエスはメシアとしての自己認識を与えられた。

 また、これはクリスチャンの自己認識でもある。イエスを信じるものは父なる神の前にイエスと同等の神の子とみなされ、同時にキリストのしもべとなるのだ。

 この詩篇イザヤ書の引用は、それぞれ一部分だけを引いているが、旧約聖書の知識のある人にとっては、これを聞いた瞬間に前後の文脈も含めてすぐに意味がわかるのだろう。まだ、そこまで旧約聖書の知識がないのでその辺りは味わえていないが、徐々に知識を蓄えて、こういった引用箇所を深く味わえるようになりたいものだ。

 

 ルカ3:23〜38はイエス系図が続く。当時、系図の重要性には様々な意味があった。一つは身元証明で、当時は全てのイスラエルの部族は系図を持っていたので、これをもって自らのユダヤ性を証明することができた。現代のイスラエルにあっては、系図はすでに失われているので、ほとんどの場合は、その人が元々住んでいた地域のラビの推薦状によってそのユダヤ性を証明しているようだ。

 また、系図は土地の所有権の証明にもなっていた。土地は部族、氏族、家族に応じて分割されていたからだ。

 また、祭司職と王位の証明にも必要だった。アロンの家系が祭司であるための条件だったし、イスラエルの王はイスラエル人(申名記17:15)である必要があり、ダビデ以降はダビデの家系(第2サムエル7:16)である必要があったからだ。

 この王位について言えば、イエスが生まれた当時にいたヘロデ大王エドム人だったので、イスラエルの王としても正当性はなかった。だから、マタイ2:3で動揺し、イエスを殺そうとすぐに考えたのだ。

 さらに、系図はメシア性の証明にも必要だ。メシアはアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれるとされているからだ。

 

 ルカの福音書に登場する系図は、イエスの母マリアの系図である。よくマタイの福音書冒頭の系図と今回のルカの系図が食い違っていておかしいという話があるが、これはヨセフの系図かマリアの系図かの違いであり、何ら矛盾ではない。

 ルカ3:23で「ヨセフはエリの子」という書かれているが、原文は英語で書くと「son of Joseph」となっており son の前に定冠詞「the」がない。これ以降の系図の中には「the (son) of Eli」と定冠詞の「the」が付けられている(「son」という語は省略されている)。専門家の説明では、定冠詞「the」の付いていない場合は、その人は系図から外れていることを示す。つまり、エリはヨセフの実父ではなく、義理の父であり、すなわち、マリアの実父であることを示している。

 ルカの系図から、イエスは、肉体的にはマリアの子であり、肉体的にはアブラハムの子孫、ダビデの子孫である。そして、ルカの系図ではイエスからアダムまで遡ることによって、イエスが全人類の救い主であることを示そうとしている。

 最初のアダムは不従順の罪により原罪を全人類の中に負わせたが、最後のアダムであるイエスは神に従順なアダムであり、この最後のアダム・キリストにつながることで人類は救いを得ることができる。

 系図の重要性には驚くべきものがある。何も知らずに読んでいると、ただ退屈なだけで読み飛ばしてしまうところだが、聖書の知識が付けばつくほど、面白さを感じることができる。

【感想】創世記(36)—イサクの嫁探し(2)—

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 今回は創世記24:32~67までです。

ここまでの文脈

 妻のサラが亡くなり、アブラハムの人生は総仕上げの時期に差し掛かっている。息子のイサクの嫁の心配もしており、しもべのエリエゼルを嫁探しのために親族のもとに派遣する。

 エリエゼルは、親族の住む地の井戸のそばでリベカに会い、彼女が親族の娘であることを知る。そして、リベカの兄のラバンによって家に招かれる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • アブラハムのしもべ・エリエゼルが、リベカの兄ラバンと父ベトエルにことの次第を説明し、リベカをイサクの嫁にするよう説得する。
  • ラバンとベトエルは同意し、リベカも翌日すぐに出発することを決断する。
  • 夕方、野で黙想していたイサクは、遠くからやってくるリベカと出会い、彼女と結婚する。

感想・気づき

 エリエゼルは、ラバンとベトエルを説得する際、まずはじめに「私はアブラハムのしもべのです(創世記24:34)」と話し始めている。これは彼の自己認識そのもので、イサクの誕生をねたまなかった忠実なしもべであることを示している。アブラハムに子がないままであれば、一番年長のしもべであるエリエゼルが相続人になっていたはずなのに、相続権がなくなっても、全く主人への忠誠心は変わらず、主人の祝福だけを願っているしもべとして描かれている。

 アブラハムはかなりの財産を持っていたことを考えると、このエリエゼルのように考えることはなかなか難しいことのように思う。この忠実なしもべという自己認識は、パウロの自己認識と似ている。彼は「キリスト・イエスのしもべ」であり、「イエスのために、あなたがたに仕えるしもべ」であると言っている。天の父なる神のひとり子であり、天の父の財産を譲り受ける相続人である。クリスチャンもパウロと同様、「キリスト・イエスのしもべ」であると同時に、義認により神の御子と等しい立場とみなされ、キリストと共に共同相続人になることができる。

 

 創世記24:43では「若い娘が水を汲みに出て来た〜」とあり、同16節では「処女で、男が触れたことがなかった」とある。43節の「若い娘」の原語は「アルマー」というヘブル語で、若い女性で処女性も含意する言葉であるのに対して、16節の「処女」は「ベツラー」という語で、これは単に若い見た目の女性を指す言葉で処女性の含意はない。だから16節ではわざわざ「男が触れたことがない」と説明しているのに対して、43節では「若い娘」とのみ書かれているだけである。

 

 また、エリエゼルがリベカをすぐに連れ帰ろうとした時、リベカの家族は「娘の言うことを聞いてみましょう(創世記24:57)」と言っている。古代中東の習慣では、娘の意見を聞く必要はなかった。しかし、フリル人の法律では、娘の意見を聞かなければならないとされていた。ここでは、ラバンやベトエルらはフリル人の法律に従っているということだ。ハランも紀元前2千年紀にはフリル人の都市だったとされているので、この記述も妥当性があるのだろう(cf. フルリ人 - Wikipedia)。

【感想】ルカの福音書(14)ヨハネのメッセージ3:7~20

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 今回はルカの福音書3:7~20までです。

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 イエスの公生涯は、バプテスマのヨハネの登場から始まる。ヨハネは「荒野で叫ぶ者の声」として、メシア到来に備えて、人々の心を整えた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • バプテスマのヨハネは、「神の御国の福音」を人々に伝えた。
  • ヨハネは、パリサイ的教えを否定し、悔い改めと道徳的行為を行うことを人々に教えた。
  • 1年間の活動の後、ヨハネは国主ヘロデ・アンティパスに捕らえられ、牢に入れられた。

感想・気づき

 ヨハネは洗礼だけで自動的に罪が赦される訳ではないと教えた。洗礼に先立って、悔い改め、心の方向転換があり、これこそが問題だからだ。そして真に悔い改めたのかどうかは、洗礼を受けたかどうかではなく、「悔い改めにふさわしい実(ルカ3:8)」、すなわちその行いによって証明される。これはヤコブの手紙のテーマでもある。

 ヤコブの手紙では、信仰があれば必ず良い行いが生じるはずであって、何も行い(=実)が生じないのであれば、その人の信仰は死んだ信仰なのであって、信仰がないのと一緒である。信仰は行いによって証明されるのだということを主張している。また、「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成され(ヤコブ2:22)」と書かれている。

 しかし、「実」で判断するという時に、「実」が実ったとどの段階で判断すればいいのだろうか。マタイの福音書では「毒麦を抜き集める内に麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい(マタイ13:30)」と言われている。ある段階までは、毒麦も麦も見た目は変わらず、同じ様な行動を取っているのではなかろうか。動機が信仰によるものであれ、打算や自身の欲望等によるものであれ、一定の「道徳的に良い行い」をすることは可能であろう。

 毒麦は最終的には、「毒の実」をならせるので、その悪い行いが露呈するということになるのであろうが、その悪が露呈するまでは良い麦と見分けがつきにくいので、その毒麦の行いが信仰の証明となると勘違いしてしまうのではないだろうか。無論、神の目とその人自身の心の中においては、答えは出ているのであろうが。

 

 ヨハネは、取税人には、「決められた以上には、取り立ててはいけません。」と教え、兵士たちには「自分の給料で満足して、人から金品を脅し取ってはいけません。」と教えた。

 当時の取税人は、入札によってローマから徴税権を得ていた。税金はローマに前納することになっていたので、目標を達成するために、乱暴な徴収をする者が多かった。特に通行税を徴収する場合は、不正がしやすく、同胞のユダヤ人からも憎まれていた。

 また、ここで「兵士たち」と言われているのは、ローマ兵のことではなく、ヘロデ・アンティパスに雇われていた兵士たちのことであった。彼らはユダヤ人であり、取税人の仕事が円滑に進むように、取税人の護衛をしていた。中には、取税人を護衛するだけではなく、ついでに脅迫をして金品を奪い取ったり賄賂を要求するような者たちもいたのだ。

 

 また、ヨハネは、来たるべきにメシアについて「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません(ルカ3:16)」と言う。この発言は、ヨハネは自分をメシアに対して奴隷以下の立場であると表明していることを意味する。「履き物のひもを解く」仕事というのは、ユダヤ人の奴隷ですらしない仕事で、これは異邦人の奴隷の役割であった。当時のユダヤ人の感覚からすると、異邦人の奴隷以下というのは最底辺以下ということである。この辺りも当時の文化的背景を知ると非常に面白い。

 ヨハネは、あくまでイエスが主でヨハネが従であり、イエスが優れているのだと言っており、ルカもそのことを強調して記録しているのだ。

ヨハネは三十にして立つ:【感想】ルカの福音書(13)ヨハネの奉仕の始まり3:1~6

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 今回はルカの福音書3:1~6までです。

ここまでの文脈

 イエスはナザレで子ども時代を過ごし、12歳でエルサレムを訪問した。その後、公生涯が始まるまでは、ナザレで両親に仕えて生活していた。

 イエスの公生涯は、バプテスマのヨハネの登場から始まる。

今回の聖書箇所を要約すると

感想・気づき

 ルカの福音書3:1では、7人の支配者、大祭司を挙げ、ヨハネの活動の開始年代を特定している。ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年ということは、恐らく紀元26年にあたる。紀元11年から2年間、ティベリウスアウグストゥスとは共同統治を行ったため、この期間をどうカウントするかで変わってくるようだ。

 ポンティオ・ピラトは5代目のユダヤ総督で紀元26〜36年の間にその任に就いていた。元々、ポンティオ・ピラトは実在するのかどうか疑問が持たれていたが、1961年にイスラエルのカイサリアで彼の名を刻んだ記念碑が発掘され、以後、彼の実在を疑う者はいない。また、彼はユダヤ人に対して非常に敵対的であることで知られていた。

 ここで出てくるヘロデは、ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスのことで、彼は紀元前4年〜紀元36年までガリラヤの領主(国主)だった。領主(国主)は、王よりも低い地位で、彼はティベリアからガリラヤ地方を統治した。このヘロデがバプテスマのヨハネを投獄する人物である。

 アンナスは元大祭司(紀元6〜15年)で、ローマに退任させられていた。カヤパはアンナスの義理の息子で大祭司となっていた(紀元18〜36年)。大祭司は終身職だったので、退任したアンナスも大祭司という称号で呼ばれていた。また、カヤパが現職ではあったものの、実権はアンナスが握ったままであった。

 ルカは年代を特定すると共に、当時の非常に複雑な政治的状況をこの1節で説明している。イエスの公生涯はこの政治的文脈の中にあって始まるのだ。

 

 また、ティベリアという町は、ヘロデ・アンティパスが皇帝ティベリウスに、紀元20年に献上した町である。この町は墓地の上に建てられたので、儀式的汚れを恐れたユダヤ人はこの町には住まなかった。だから、イエスは異邦人のこの町に訪れたという記録はない。

 しかし、バル・コクバの乱(132〜135年)以降、ユダヤ議会・サンヘドリンがこの町に移され、その際、ラビ・シメオン・バル・ヨカイによってこの町は清められた。その結果ユダヤ人が住むようになり、これ以降数世紀に渡りユダヤ教神学の中心地となる。エルサレム・タルムードと旧約聖書のマソラ本文は、この時期のティベリアで確定された。

 これらの内容は聖書のメッセージというよりも、ほぼ歴史の授業のようなものだけど、非常に面白い。当時の時代背景がなんとなく浮かび上がってくるので、ルカの福音書を読むに当たっては重要な情報だと思う。

 

 ヨハネは、公の活動をおよそ30歳から開始した。旧約聖書の時代、祭司は30歳から奉仕を始めるのが一般的だった。そして、祭司ザカリヤの子ヨハネもまた、30歳で活動を開始したという訳だ。

 30歳という年齢が中々面白い。現代でも大学に入って、修士、博士と進むと30歳前後になるだろう。何かを学んでそれを専門にしようとすると、そのぐらいは時間がかかるということなのだろうか。紀元前後であれが、今よりも平均寿命も短かったであろうが、それでもやはり高度な知的専門職である祭司は30歳から仕事を始めていたのだ。

 脳の神経細胞の組成も30歳前後になると、それまでとは変化し、色々なことに落ち着いて見通しを立てたり、考えたりすることができるようになるという話も、脳科学関係の一般書で読んだことがある。このことを考えても、20代の間は大学に限らず、各人の興味のあることに没頭し、本格的に自分の歩むべき道を見つけるのは30歳前後というのがいいのかもしれないなと思った。そういえば、論語孔子も「吾、十有五にして学に志す、三十にして立つ」と言ってたな。これだな。

【感想】創世記(35)—イサクの嫁探し(1)—

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 今回は創世記24:1~24:31までです。

ここまでの文脈

 アブラハムは、イサクの奉献という生涯のクライマックスを、信仰によって乗り越え、今や人生の仕上げの時期に差し掛かっている。

 その後、サラが亡くなり、約束の地に彼女の墓地を購入した。そして、これからイサクの嫁探しを考え始める。

今回の聖書箇所を要約すると

  • アブラハムは、最年長のしもべであるエリエゼルと契約を結び、兄ナホルの住む町ハランへとイサクの嫁探しのために派遣する。
  • ハランに到着したエリエゼルは井戸のそばでリベカと出会い、彼の祈り通りの人物だったので、金の飾り輪と腕輪を贈る。
  • リベカの兄・ラバンが現れ、エリエゼル一行はしばらく彼の家に滞在するよう招待される。

感想・気づき

 エリエゼルは、アブラハムの全財産を管理していた。アブラハムからの信頼が最も厚いしもべだった。アブラハムに子どもが与えられていない間は、彼はアブラハムの相続人としての権利があったが、イサクの誕生(または、イシュマエルの誕生)によって、その権利は失われた。にも関わらず、彼は全く苦々しい思いを抱かずに、忠実に主人であるアブラハムに仕えていた。そして、今回のイサクの嫁探しも心から主人のために働いた。

 このエリエゼルの姿勢は見習うべきものだなと思う。自分が同じ立場だったら、まず間違いなくアブラハムの富に目が眩み、いつまでも「主人に子どもが生まれなければなぁ」という思いをいただき続けていると思う。人生の考えても仕方のない、「あの時、ああであれば、こうであれば」ということをクヨクヨと考えて、暗い気持ちになって落ち込むことが度々ある。エリエゼルのように与えられた場所・環境で、与えられた能力に応じて全力で仕えるということがいかに大事で尊いことか。主人に忠実な者には、それに応じた報いが受け取れるということだろう。

 

 アブラハムがエリエゼルをハランに派遣する際に、「あなたの手を私のももの下にいれてくれ(創世記24:2)」と言っている。これは婉曲表現で、エリエゼルにアブラハム生殖器を掴むようにと言っている。この行為は厳粛な契約を意味する行為で、もし不履行になった場合は子どもたちが復讐する、という意味である。これは割礼による契約に匹敵する重みのある契約である。

 こういったユダヤ文化、中東文化についての解説はいつ聞いても面白い。今の時代、調べればわかることなのだろうが、あまり意識せずに読み飛ばしてしまっているので、改めて解説されると非常に面白いし毎回驚く。

 

 アブラハムはエリエゼルとの契約の中で、イサクはカナン人と雑婚してはいけないこと、また、イサクをハランに連れ帰ってはいけないことを条件としている。アブラハムは、神が彼に約束したことを堅く信じていた。だから、イサクの将来はカナンの地にしかないと考えていた。だから、条件に合わなければエリエゼルは契約から解かれると言っている。アブラハムからしたら、イサクがハランに行って結婚したり、カナン人と雑婚する位なら、カナンの地で独身のままでいて、神に仕える方がよいという訳である。

 これは、クラスチャンの結婚観に影響を与える箇所だ。よくよく考えて、それがハランの地での結婚生活になっていないかどうか考える必要があるということだろう。ちょっと色々考えさせられてしまう。

 

 エリエゼルがリベカを井戸のそばで試した時、リベカは純粋にその良い性格のゆえに、彼にもラクダにも水を汲んで飲ませた(ラクダは最大で80リットル程度の水を飲むこともあるらしい)。それに引き換え兄のラバンは「飾り輪と、妹との腕にある腕輪を見(創世記24:30)」て、エリエゼルの元へと急いだ。彼は富に惹かれたのだ。これは、将来ヤコブに対して非常に狡猾で貪欲な態度を取ったこととも一貫しており、彼の性格がよく表されている。