公的な癒やしと私的な癒やしを使い分けるイエス【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(9)

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 今回のメッセージはここで聞けます(2007年12月3日)→

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ここまでの文脈

 マタイの福音書第8章では、5種類の癒やしを見て、そこからイエスのメシア性を証明した。今回のマタイの福音書第9章は5種類のパリサイ人との論争からイエスのメシア性を証明する。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスとパリサイ人たちは5種類の論争を繰り広げる。
  • これらの論争の中で、サンヘドリンのメシア運動評価は「観察の段階」から「審問の段階」へと移行する。
  • エスは、一貫して口伝律法に基づくパリサイ的ユダヤ教を拒否している。

感想・気づき

 マタイの福音書9:1〜8で描かれる中風の人の癒やしでは、パリサイ人は「心の中で」イエスの癒やしに対して批判する。これはサンヘドリンのメシア運動の評価の段階がまだ「観察の段階」なので、イエスに対して直接声を発して問いただすことが禁じられているからだ。マタイの福音書9:11になると、パリサイ人たちは弟子たちに対して直接質問しているので、これは「観察の段階」から次の「審問の段階」に移行したことを示している。

 このサンヘドリンのメシア運動の評価方法を知っていると、バプテスマのヨハネやイエスの活動に対するパリサイ人たちの応答の仕方の意味がわかって大変面白い。

 また、イエスは中風の人の癒やしの際に「あなたの罪は赦された」と言っている。この発言は原文のヘブル語でも動詞が受動態で書かれているのだが、旧約聖書で神の赦しが受動態で記されているのはレビ記第4章から第6章のみで、ユダヤ教の伝統ではこれはメシアの業を指すとされていた。だから、イエスが「あなたの罪は赦された」と言った途端に、パリサイ人たちは心の中で「神を冒涜している」と思ったのだ。

 

 イエスがマタイを招命したあと、マタイの家で救われたことを祝う宴会が行われた。宴会には取税人と罪人(=娼婦)ばかりが出席していた。当時、取税人は、ローマ帝国から入札によりその権利を得ていたが、ユダヤ人社会の中では、ローマの手先として働く売国奴であり同胞を搾取して私腹を肥やしていると考えられており、ユダヤの律法によって共同体の交わりから追放されていた。それゆえ、取税人同士か娼婦としか接することができなかったのだ。

 イエスはパリサイ人から、なぜ取税人や罪人と食事をするのかと問われた際に、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です」、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答える。

 「いけにえ」は外側に出た行為のことを指しており、律法主義的生活を言っている。「あわれみ」は内面的な、行為の背後にある動機を指している。イエスの教えは一貫して、行為そのものではなく、その動機を重視し、自らの罪に向き合っている人に対して語りかけている。

 

 イエスが、ふたりの盲人を癒やした際、イエスは公の場では癒やさずに、盲人の家に入って私的な場所で癒やしを行った。公衆の面前で癒やさないのはユダヤ人社会の指導者達(サンヘドリンのパリサイ人)がイエスのメシア性を拒否しているからだ。

 そして、私的な癒やしでは、癒やしを求める人の信仰が必要なので、イエスはそれを確認して癒やした上で、この癒やしを秘密にしていおくよう求める。私的な癒やしはイエスのメシア性を証明するために行われるものではないし、この程度の癒やしではすでにパリサイ人たちからメシア性を拒否されているからだ。また、イエスが政治的メシア像を民衆に期待されることを嫌ったということも理由だ。

 これに続く口のきけない人からの悪霊の追い出しは、盲人の癒やしよりも難易度が高く、メシアにしかできない癒やしだと当時のパリサイ的ユダヤ教が教えていた。だから、イエスはこれひついては再び公の場で癒やしを行ったのだ。