【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(3)バプテスマのヨハネから学ぶ

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 今回のメッセージはここで聞けます(2007年10月1日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回はマタイの福音書第3章です。

ここまでの文脈

 マタイの福音書第1章で、イエス系図処女懐胎が、第2章でイエスの誕生からエジプトへの逃避、そしてナザレに戻るまでが語られた。

 第3章ではバプテスマのヨハネによる、メシアに先立つ者としての働きが始まる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • バプテスマのヨハネが、荒野で悔い改め教えを宣べ伝え、洗礼を授け始める。
  • サンヘドリン(ユダヤ議会)の使者たちが、メシア運動の調査のためにヨハネのもとにやってくるが、ヨハネからは激しく批判される。
  • エスが、ヨハネバプテスマを受けた直後に、三位一体の神が自己啓示されるとともに、イエスの公生涯が始まる。

感想・気づき

 今回の箇所もまた、日本語訳の聖書を読んでいるだけでは、わからないことが満載だった。メッセージを聞いていて「そういうことだったのか!」と思うことだらけだ。

 まず、バプテスマのヨハネが「らくだの毛の着物を着、・・・食べ物はいなごと野蜜であった(マタイ3:4)」は当時の荒野では普通の生活だった。しかし、ヨハネの生活とその姿は旧約聖書のエリヤの姿を彷彿とさせるものだった。

 当時は、旧約聖書最後の預言者マラキ以降、預言者は絶えておよそ300年、神の声をイスラエルの民が聞くことは出来なくなっていた。さらに、ローマの圧政に苦しみ、イザヤ40:3やマラキ3:1で預言されているメシアの先駆者や、メシアを待望する民衆の思いが非常に高まっていた時期だった。そこに、バプテスマのヨハネが働きを始めたので、たくさんの人々がヨハネのもとに集まってきた。さらに、ヨハネ誕生の際の、ザカリヤに起きた出来事についても、人々の間に語り伝えられていたはずなので、そのこともあわさって、ヨハネの働きは初めのころから相当な人々を集めたはずだ。

 また、ヨハネが「天の御国が近づいたから(マタイ3:2)」と教えているが、「天の御国」とは、旧約聖書で預言されている「メシア的王国」のことであり、当時のユダヤ人たちがメシアの待望と共に切望していたことだ。「メシア的王国」は、クリスチャンが「千年王国」と呼ぶ、ヨハネの黙示録の中で描写されているものと同じものである。

 さらに、「パリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来るのを見て(マタイ3:7)」とあるのは、直訳すると「彼(ヨハネ)のバプテストに来た」程度の意味であり、その場所に来ただけで、ヨハネの洗礼を受けに来たわけではない。彼らは、サンヘドリン(ユダヤ議会)の使者であり、ヨハネの「メシア運動」の調査に来たのだ。

 サンヘドリンは「メシア運動」に類するものが起きたときは、まず第1段階として使者を送って、その運動を観察させ、報告させた。その際、使者たちは一切質問したり、答えたりせずに、観察だけするというのが通例だった。サンヘドリンが報告を受けて、本格的に調査の必要があると判断したら、第2段階以降へと移行する。今後のマタイの福音書の中で、第2段階以降のサンヘドリンの使者や議員たちが登場することになる。

 ヨハネは、サンヘドリンの使者たちに「この石ころからでも、アブラハムの子孫を起すことがおできになる(マタイ3:9)」と言っているが、「石ころ」とは異邦人のことで、これは異邦人の救いの預言となっている。

 当時のパリサイ人やサドカイ人は、ユダヤ人はただアブラハムの子孫というだけで、生まれながらに救われているので、悔い改めの必要はないと考えており、異邦人のみが悔い改める必要があると、民衆に教えていた。しかし、ヨハネユダヤ人もまた悔い改めが必要であると説いた。そして、異邦人であるクリスチャンはイエス・キリストに対する信仰を通じて、霊的にアブラハムの子孫とされることを預言している。

 これらの背景知識というのは、当時のユダヤ人には当たり前のことだったので、説明の必要がなかったのだろうが、現代の異邦人にとっては全くわからないことばかりだ。相当量の補足説明を受けなければ、全く理解できない。バプテスマを受けに来たパリサイ人、サドカイ人に対して、なぜヨハネが怒っているのかなど、よくわからなかったが、はっきりと理解できるようになった。

 

 また、イエスは悔い改める必要のないお方であるにもかかわらず、ヨハネの洗礼を受けた。これは、ヨハネのメッセージに対する、イエスの同意を示してその正当性を保証するとともに、イエス自ら罪人のようになってくださったということである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました(Ⅱコリ5:21)」と書かれているとおりである。