【感想】ルカの福音書(14)ヨハネのメッセージ3:7~20

 聖書の言葉をあなたへ ハーベスト・タイム・ミニストリーズというサイトで無料で聞くことができる、聖書の講解メッセージの要約や感想を書いています。
 今回のメッセージはここで聞けます(2022年1月16日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
message-station.net

 このメッセージのアウトラインはこちら

 今回はルカの福音書3:7~20までです。

ここまでの文脈

 イエスの公生涯は、バプテスマのヨハネの登場から始まる。ヨハネは「荒野で叫ぶ者の声」として、メシア到来に備えて、人々の心を整えた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • バプテスマのヨハネは、「神の御国の福音」を人々に伝えた。
  • ヨハネは、パリサイ的教えを否定し、悔い改めと道徳的行為を行うことを人々に教えた。
  • 1年間の活動の後、ヨハネは国主ヘロデ・アンティパスに捕らえられ、牢に入れられた。

感想・気づき

 ヨハネは洗礼だけで自動的に罪が赦される訳ではないと教えた。洗礼に先立って、悔い改め、心の方向転換があり、これこそが問題だからだ。そして真に悔い改めたのかどうかは、洗礼を受けたかどうかではなく、「悔い改めにふさわしい実(ルカ3:8)」、すなわちその行いによって証明される。これはヤコブの手紙のテーマでもある。

 ヤコブの手紙では、信仰があれば必ず良い行いが生じるはずであって、何も行い(=実)が生じないのであれば、その人の信仰は死んだ信仰なのであって、信仰がないのと一緒である。信仰は行いによって証明されるのだということを主張している。また、「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成され(ヤコブ2:22)」と書かれている。

 しかし、「実」で判断するという時に、「実」が実ったとどの段階で判断すればいいのだろうか。マタイの福音書では「毒麦を抜き集める内に麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい(マタイ13:30)」と言われている。ある段階までは、毒麦も麦も見た目は変わらず、同じ様な行動を取っているのではなかろうか。動機が信仰によるものであれ、打算や自身の欲望等によるものであれ、一定の「道徳的に良い行い」をすることは可能であろう。

 毒麦は最終的には、「毒の実」をならせるので、その悪い行いが露呈するということになるのであろうが、その悪が露呈するまでは良い麦と見分けがつきにくいので、その毒麦の行いが信仰の証明となると勘違いしてしまうのではないだろうか。無論、神の目とその人自身の心の中においては、答えは出ているのであろうが。

 

 ヨハネは、取税人には、「決められた以上には、取り立ててはいけません。」と教え、兵士たちには「自分の給料で満足して、人から金品を脅し取ってはいけません。」と教えた。

 当時の取税人は、入札によってローマから徴税権を得ていた。税金はローマに前納することになっていたので、目標を達成するために、乱暴な徴収をする者が多かった。特に通行税を徴収する場合は、不正がしやすく、同胞のユダヤ人からも憎まれていた。

 また、ここで「兵士たち」と言われているのは、ローマ兵のことではなく、ヘロデ・アンティパスに雇われていた兵士たちのことであった。彼らはユダヤ人であり、取税人の仕事が円滑に進むように、取税人の護衛をしていた。中には、取税人を護衛するだけではなく、ついでに脅迫をして金品を奪い取ったり賄賂を要求するような者たちもいたのだ。

 

 また、ヨハネは、来たるべきにメシアについて「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません(ルカ3:16)」と言う。この発言は、ヨハネは自分をメシアに対して奴隷以下の立場であると表明していることを意味する。「履き物のひもを解く」仕事というのは、ユダヤ人の奴隷ですらしない仕事で、これは異邦人の奴隷の役割であった。当時のユダヤ人の感覚からすると、異邦人の奴隷以下というのは最底辺以下ということである。この辺りも当時の文化的背景を知ると非常に面白い。

 ヨハネは、あくまでイエスが主でヨハネが従であり、イエスが優れているのだと言っており、ルカもそのことを強調して記録しているのだ。