【感想】創世記(36)—イサクの嫁探し(2)—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2009年3月16日)→

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 今回は創世記24:32~67までです。

ここまでの文脈

 妻のサラが亡くなり、アブラハムの人生は総仕上げの時期に差し掛かっている。息子のイサクの嫁の心配もしており、しもべのエリエゼルを嫁探しのために親族のもとに派遣する。

 エリエゼルは、親族の住む地の井戸のそばでリベカに会い、彼女が親族の娘であることを知る。そして、リベカの兄のラバンによって家に招かれる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • アブラハムのしもべ・エリエゼルが、リベカの兄ラバンと父ベトエルにことの次第を説明し、リベカをイサクの嫁にするよう説得する。
  • ラバンとベトエルは同意し、リベカも翌日すぐに出発することを決断する。
  • 夕方、野で黙想していたイサクは、遠くからやってくるリベカと出会い、彼女と結婚する。

感想・気づき

 エリエゼルは、ラバンとベトエルを説得する際、まずはじめに「私はアブラハムのしもべのです(創世記24:34)」と話し始めている。これは彼の自己認識そのもので、イサクの誕生をねたまなかった忠実なしもべであることを示している。アブラハムに子がないままであれば、一番年長のしもべであるエリエゼルが相続人になっていたはずなのに、相続権がなくなっても、全く主人への忠誠心は変わらず、主人の祝福だけを願っているしもべとして描かれている。

 アブラハムはかなりの財産を持っていたことを考えると、このエリエゼルのように考えることはなかなか難しいことのように思う。この忠実なしもべという自己認識は、パウロの自己認識と似ている。彼は「キリスト・イエスのしもべ」であり、「イエスのために、あなたがたに仕えるしもべ」であると言っている。天の父なる神のひとり子であり、天の父の財産を譲り受ける相続人である。クリスチャンもパウロと同様、「キリスト・イエスのしもべ」であると同時に、義認により神の御子と等しい立場とみなされ、キリストと共に共同相続人になることができる。

 

 創世記24:43では「若い娘が水を汲みに出て来た〜」とあり、同16節では「処女で、男が触れたことがなかった」とある。43節の「若い娘」の原語は「アルマー」というヘブル語で、若い女性で処女性も含意する言葉であるのに対して、16節の「処女」は「ベツラー」という語で、これは単に若い見た目の女性を指す言葉で処女性の含意はない。だから16節ではわざわざ「男が触れたことがない」と説明しているのに対して、43節では「若い娘」とのみ書かれているだけである。

 

 また、エリエゼルがリベカをすぐに連れ帰ろうとした時、リベカの家族は「娘の言うことを聞いてみましょう(創世記24:57)」と言っている。古代中東の習慣では、娘の意見を聞く必要はなかった。しかし、フリル人の法律では、娘の意見を聞かなければならないとされていた。ここでは、ラバンやベトエルらはフリル人の法律に従っているということだ。ハランも紀元前2千年紀にはフリル人の都市だったとされているので、この記述も妥当性があるのだろう(cf. フルリ人 - Wikipedia)。