【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(8)

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 今回はマタイの福音書第8章です。

ここまでの文脈

 イエス旧約聖書の示すメシアであることを証明するために、冒頭に系図が書かれ、次に誕生の経緯が語られた。そして、バプテスマのヨハネから洗礼を授かりイエスの公生涯が始まった。その直後、荒野でサタンからの試みを受け、メシアとしてのテストに合格すると、山上の垂訓を通じてメシアの教えを弟子たちに語った。

 今回の箇所では、メシアの業(行為)が描かれる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 5種類の癒やしが描かれ、それぞれがイエスのメシア性の証明になっている。
  • 5種類の癒やしは全て性質の違うもので、マタイがイエスの行った癒やしの内、代表的なものをピックアップして記録していると思われる。
  • エスの弟子となるためには、決心と自己犠牲が求めらる。

感想・気づき

 イエスに癒やしを求めるレプラ患者の解説が感動的だった。彼はイエスが自分のことを癒やす能力があることを信じてはいたが、自分のような人間に憐れみをかけてくれる自信がなかったために、「癒やしてください」とは言わずに「私をきよくすることがおできになります(マタイ8:2)」と言った。このレプラ患者のためらいに対して、イエスは「私の心だ。きよくなれ」と答える。ためらう者に対して、心からあなたを憐れんで癒やしてあげますよというイエスの応答である。

 このレプラ患者のためらいや、それに対するイエスの愛のある応答など、聖書では、はっきりとわかりやすく説明してしまうのではなく、登場人物のちょっとした言い回しに注意深く、感情の動きや心情を表現したり、言葉ではなくその人がどのような行動をしているかで心の動きを表現している。登場人物の「演技」によって様々なことを説明しているところがあり、読み取るのがなれないと解説なしには難しいのだが、その意味がわかると、非常に味わい深く、登場人物の心の在りようが伝わってくる。非常に演劇や映画、映像的な表現をしている。文学には詳しくないのだが、こういう表現方法には何かカテゴライズされた用語などあるのだろうか。

 ちなみに、レプラの癒やしについて、当時のラビたちはメシアにしかできない奇跡として教えていた。だから、イエスモーセの律法に従ったきよめの手順を指示し、祭司に見せるようにこのレプラ患者に命じている。

 

 この章では百人隊長のしもべの癒やしという有名のエピソードが描かれている。このエピソードの「権威」の解釈は大好きだ。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます(マタイ8:8)」と言う百人隊長と、彼の信仰と権威というものに対する理解に驚くイエス

 例えば、会社に務めている人ならば後輩から「これコピーしとけよ!」といきなり言われたら不愉快だと思いますが、「『これコピーしとけよ!』って社長が言ってました」と同じ後輩から言われたとしたら、感じ方は随分違うと思います。これは社長が社員に対して、その会社の仕事に関しては権威を持っているからで、必ずしも直接相手に言う必要はないわけです。これと同じことを百人隊長はイエスに言っている。権威は人づてに送ることができる。

 また、異邦人であるこの百人隊長がイエスの癒やしに与れるのは、アブラハム契約の祝福の条項によっている。ルカの福音書第7章では、ユダヤ人の長老たちが、この百人隊長について「私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました(ルカ7:5)」と言っている。それゆえ、イスラエルを祝福するものは祝福されるというアブラハム契約が適用されているのだ。彼は異邦人の救いの先駆けとなっている。

 

 弟子の一人が「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください(マタイ8:21)」と言うが、これは本当にこの人の父親が死んだということではなく、何かを断る時の常套句である。これも非常に面白い。中東では長男は父を最後まで看取り、1年経ったらその責務から解放されるという慣習があるが、この常套句はこの慣習を前提としたものだ。

 この聖句を使って、親戚や友人、実の両親などの葬式に出てはいけないと教えるカルト教会もあるが、全く意味を取り違えているということだ。

【感想】神の国と悪魔の国(パートⅡ.旧約時代 5章 大洪水)

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これまでの話

 このシリーズでは、「神の国と悪魔の国の葛藤」というテーマを軸に、聖書を読み解く。このテーマは、聖書の歴史哲学の中心である。

 サタンは、創世記3:15で神が示された原福音に登場する「女の子孫」の誕生をなんとしても阻止しようと考えてた。サタンは、カインを使ってアベルを殺したが、アダムとイブに新たにセツが与えられたの見ると、別の方法を採った。

 一つは、カインの子孫を繁栄させて人数を増やし、セツの子孫に悪影響を与えること。もう一つは、堕天使と人間の雑婚を進め、ネフィリムという異形の生物を増やし、人間の内にある「神のかたち」を破壊することである。

今回のメッセージを要約すると

  • ネフィリムとカインの子孫たちが増え、地上は悪で満ちていた。
  • 神はノア一家以外の人類を全て滅ぼし、人類の歴史を新たに再スタートさせることを決める。
  • 大洪水により罪人は全て滅ぼされ、神の国と悪魔の国との葛藤は一旦白紙に戻った。

感想・気づき

 堕天使と人間との雑婚というのは、何度聞いても恐ろしい。しかし、ネフィリムたちの記憶が歪められてギリシア神話の中に残っているという説は、何度聞いてもおもしろい(今回のメッセージでは触れられていないが)。

 しかし、神は大洪水のあと、ノアとの契約で、二度と世界全体を覆うような普遍的大洪水を起こさないと約束したのであれが、サタンはもう一度この雑婚戦略を採用すればいいのではないかと思う。神が大洪水を起こさなければならないほどに、一時はうまくいった訳だから、大洪水が起きなければ更に大きな成功を得ることができるように思うが、どうなのだろうか。同じ手管は二度とはしないというサタンのポリシーがあるのだろうか。

 

 人類の歴史はアダムから始まった。そして、大洪水後の新しい人類の歴史はノアから始まった。そういう意味で、ノアはアダムに匹敵する。これは面白い視点だと思う。また、ノアの箱舟イエス・キリストの型である。これは比較的聖書を読んでいて自然に読み取れることだと思う。ノアは、神に箱舟に入るよう招かれて罪人を滅ぼす大洪水がから免れた。クリスチャンはイエスの福音を信じ、イエスの下に逃げ込むことで、来たるべき裁きの時代から免れるという訳だ。改めて、この関係を見ると、巨大な箱舟に乗って、大洪水の中を水に浮かんで厄災を免れるというのは、非常にドラマティックであり、絵画的でもあり、イエス・キリストの十字架による救いというものを理解するのにもってこいの題材であると感じた。

【感想】創世記(34)—サラの埋葬—

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 今回は創世記22:20~23:20までです。

ここまでの文脈

 アブラハムは、イサクの奉献という、生涯のクライマックスをその信仰によって、無事に乗り越えた。アブラハムにとっては、人生の総仕上げの時期に差し掛かってきている。

今回の聖書箇所を要約すると

  • イサクの奉献の後、精神的にエアポケットに落ち込んでいたと思われるアブラハムのもとに、ハランの地に住む兄弟ナホル一家の情報が伝わってくる。
  • 妻・サラが127歳で死に、当時別居していた(理由は不明)アブラハムが弔いのために、ベエル・シェバからキルヤテ・アルバにやって来る。
  • アブラハムはその地のヘテ人(ヒッタイト人)から土地を買い、サラを葬る。

感想・気づき

 アブラハムが、イサクの奉献の後、精神的にエアポケットに落ち込んでいたという解釈が面白い。そんなこと考えたこともなかったが、深読みすると納得できる解釈だと思った。しかも、ちょうどよいタイミングでハランの地に住む兄弟ナホルのことも伝わってきて、アブラハムに里心がついて、昔住んでいた土地に帰りたくなる気持ちが湧いてきているという。

 人生の中で、なにか転機になるようなことが訪れた時、これからの人生をどうしようかと、方向性を模索する時期にアブラハムが入っているということだ。自分自身のことを考えてみても、今後どうしようかと、しみじみ考えさせられた。

 アブラハムは、サラを埋葬するための墓地を購入する。ナホルの住むハランに帰って、サラを埋葬するという選択肢もあったが、アブラハムは約束の地で土地を手に入れて埋葬し、この地に根を下ろすことを決意した。直前にナホルの家族の情報がハランから伝えられたと記されていることが、このアブラハムの決意をより強く表現する効果があり、うまい構成だと思った。

 

 この墓地を買う時のヘテ人とのやり取りが、当時の中近東のアラブ人の商習慣に則っており、非常に面白い。相手の言葉を額面通り受け取るのではなく、時間をかけて相手の真意をお互い読み合いつつ、交渉を進めていく。北アフリカを旅行した時のことを思い出した。お土産一つ買うにも、いちいち交渉に時間がかかって、初めは面白がっていたが、だんだん面倒くさくなってきた思い出がある。

 ヘテ人が最初に提示した金額は銀400シェケルで、これは当時の相場の10倍にもなる金額らしい。通常はここから交渉が始まり、時間をかけて値段が決まっていくのだが、アブラハムはこの考えられないような金額で即決している。アブラハムはこれが法外な値段だとわかった上で買ったのだ。これもアブラハムの、約束の地に根を下ろすという決意の現れなのだろう。

【感想】ルカの福音書(12)イエスの成長2:39~52

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 今回はルカの福音書2:39~52までです。

ここまでの文脈

 イエスが生まれ、8日目に割礼をした。40日目にマリアの清めを行い、その際、神殿でシメオンとアンナから祝福と賛美の言葉を送られる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスは12歳になるまで、マリアとヨセフのもとで、平穏に生活し、育っていった。
  • 12歳頃までに、イエスはメシアとしての自覚が芽生え、両親と共に過越の祭りのために訪れたエルサレムの神殿を「自分の父の家」と呼ぶ。
  • その後、イエスは30歳頃までナザレで、両親と共に生活し、仕えた。

感想・気づき

 原罪のない人間がいかにして成長するかを、この箇所はイエスを通して書いているということらしい。そして、歴史上これが唯一完璧な成長の例であるとのこと。マリアが無原罪などと言われることもあるが、そんなことはありえない話であり、イエスこそが歴史上唯一無原罪で生まれ、無原罪のまま人生(人間としての)を全うした例なのだ。

 「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった(ルカ2:40)」。これがルカの表現する原罪のない人間の完璧な成長を表している。

 まず、肉体的に成長した。普通の乳幼児が通過する全ての段階を経験した。普通の人間と同様、乳児の頃はお腹が空いたり、排便したりして不快に気持ちになれば泣き、母親に抱かれて安らぎを覚えたことだろう。様々なことを経験を通じて学び、身の回りの世界を知っていったはずだ。「知恵に満ちて」とは、体験して得た知識を生活の中で適用する能力があったということだ。この知識とは体験であるという含意は非常にヘブル的なものだ。そして、「神の恵みがそのうえにあった」とは、ここでは神の寵愛を受けていたということだ。神が共におられることでイエスは霊的成長も著しかっただろう。

 

 イエスが12歳の時に、両親と共に祭りの季節にエルサレムの登った際、他の家族はもう帰途についたのに、イエス一人で神殿に残ってそこで律法の教師たちの話を聞いたり質問していた、ということが起きる。両親がイエスを探し出して叱責した際に、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当然である(ルカ2:49)」と答える。イエスの中にはっきりと、メシアとしての自覚が芽生えてきたこたことがうかがえる。

 12歳というのは、ユダヤ人の少年が父から仕事を学び始める年齢である。そして、13歳になると成人男性として扱われるようになる。イエスは、12歳になってから、父ヨセフから大工仕事も学び始めたのだろうが、天の父からは公生涯に向けた霊的訓練を受け始めたのだ。

 第1サムエル3:10では、少年サムエルが神のことばを聞くようになる。この時のサムエルの年齢は聖書には記載がないが、ユダヤ人史家ヨセフスは、この時サムエルは12歳だったと解説しているらしい。この後、「サムエルは成長した。酒は彼と共におられ(Ⅰサム3:19)」た。この少年イエスと少年サムエルの記事は、内容が類似しており非常に面白い。

 

 ここで、「両親は彼を見て驚(ルカ2:48)」いた。これは聖書の読者からしたら、不思議に感じる。マリアもヨセフも共に天使からの告知を聞き、イエス出産直後の羊飼いたちの礼拝を経験し、東方の博士たちから乳香・没薬・黄金を授かり、主の使いの導きでエジプトへ逃亡し、更に主の使いの声を聞いてエジプトから帰ってくるという尋常ではない出来事をすでに経験しているにも関わらず、イエスの神殿での様子をみて驚いたのだ。

 しかし、イエスが2歳頃の時にエジプトへ逃げ、数年後にナザレに住むようになったとして、この時点で5〜6年は平穏に暮らしていたと仮に考えると、人間というものはこれだけの年数何もなく過ごすといかにすごい体験をしていてもその印象は薄れ、実感がなくなっていくものなのだろう。今過ごしている日常がこれからもずっと続いていくと考えてしまうものなのだろう。この辺りは聖書の持っているリアリティーだと思う。

【感想】創世記(33)—イサクの奉献—

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 今回は創世記22:1~19までです。

ここまでの文脈

 アブラハムにはこれまで何度か転機(危機)が訪れた。父の家であるウルを出たこと、ロトと別離したこと、イシュマエルを追放したこと、これらの転機を乗り越える度に少しずつアブラハムは信仰的に成長し、同時にアブラハム契約の内容も明らかになっていく。

 今回のイサクの奉献は4度目の転機にあたり、アブラハムの人生のクライマックスにあたる。

今回の聖書箇所を要約すると

  • 神からアブラハムに、ひとり子イサクを捧げよと命令が下り、アブラハムの中に復活信仰が芽生え始める。
  • アブラハムはモリヤの山でイサクに手をかけようとした時、神が介入し、アブラハムは代わりに雄羊を全焼の生贄として捧げる。
  • アブラハムの信仰がその行為によって証明されると共に、アブラハム契約の内容が再確認される。

感想・気づき

 アブラハムがイサクを捧げようとした時、イサクの年齢はすでに30代に差し掛かっていた。だから、アブラハムが何をしようとしているかはわかっているし、抵抗しようと思えばできたはずにも関わらず、無抵抗でアブラハムに縛られて、半ば自ら祭壇の上の薪の上に載せられたのだ。これはイサクの、父親に対する絶対的な信頼があってのことだろう。父アブラハムの神への信仰、息子イサクへの愛、イサクはどちらも絶対的に信じていたのだ。

 アブラハムは、神からイサクの奉献に関する命令を受けた時、「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて・・・(創世記22:2)」と神の言葉を聞いたが、原語では「あなたの子、ひとり子、あなたの愛している子、イサク」という順番になっている。少しずつ対象を絞っていって最後にイサクだと特定するという形になっている。アブラハムの心境たるやいかなるものであっただろうか。「あなたの子」から段々と「イサク」へと対象が絞られるに従って、心が締め上げられるように感じただろう。

 ユダヤ教のラビ的伝承ではこの箇所で以下のようなアブラハムと神とのやりとりがあったとされている:

 ①「あなたの息子を連れて」。「私にはふたりの息子がおりますが」

 ②「ひとり子だよ」。「それぞれが母親にとってはひとり子ですが」

 ③「あなたの愛している子だよ」。「私は両方とも愛していますが」

 ④「イサクだよ」。

このだんだんとアブラハムの心中に迫っていく感じがなんともうまく表現されている。非常に面白い伝承だ。

 アブラハムは神のこの命令に対して、非常に悩み苦しんだだろう。神の命令は絶対であることはこれまでの失敗から学んでいたが、やっと授かったひとり子を自らの手で殺せという命令に煩悶したはずた。しかし、アブラハムは神が「イサクにあって、あなたの子孫が起されるからだ(創世記21:12)」を信じており、もしイサクが死んだら、神が復活させない限りこの約束は成就しないと気がついた。ここでアブラハムはイサクが復活するという信仰を得たのだ。そして、その翌朝早くにモリヤの山へ向けて出発した。

 

 イサクは父アブラハムとおよそ3日の旅を経て、全焼の生贄を捧げるモリヤの山に到着した。その間、イサクは自分がその上で焼かれることになる薪を自ら背負って歩いた。また、アブラハムは自らのひとり子を殺すための火と刀とを手に握り進んでいった。これらの出来事は、メシアが自らが張り付けにされる十字架を背負って歩まれ、父なる神が御子を犠牲にされたことの型になっている。

 イサクの奉献に関するラビ伝承では:
 アブラハムが刀をイサクの喉に当てた時点で、イサクの魂は肉体を離れ、神の声があってからその魂は肉体に戻ったとされており、アブラハムが最後まで手をかけずともイサクは一度死んで復活されたとされている。

 つまり、ラビ的伝承の中にはひとり子の復活という概念があるということだ。ここに、将来ユダヤ人がイエスがメシアであり、十字架の死と復活を遂げたことを信じる素地がある。

 

 イサクの奉献はアブラハムの人生のクライマックスだが、それはすなわち聖書のクライマックスでもある。これに相当するのはイエスの十字架の死と復活だが、イサクの奉献はまさにその型なのだ。

【感想】ルカの福音書(11)2人の証人2:25~38

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 今回はルカの福音書2:25~38までです。

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 イエスが生まれ、8日目に割礼を受けた。そして、マリアの40日目の清めの儀式のためにイエス一家は神殿に上る。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エス一家は妻マリアの清めのために神殿に入る(恐らく「婦人の庭」)が、そこで、シメオンとアンナから預言と賛美を受ける。
  • エスは、イスラエルの民と異邦人の両方、つまり全人類の救いとなると預言される。
  • また、同時にイエスの伝えるの真理はイスラエルの民を二分するとも預言される。

感想・気づき

 キリスト教とは、「普遍的ユダヤ教」のことなのだ、という今回のメッセージの結論は非常に「熱い!」と思った。ルカの福音書は、主に異邦人に向けて書かれており、福音がいかに世界に広がり、普遍的な内容かということを伝えようとしている。世界に広がっていく帰結は続編の使徒の働きで描かれているが、そのルカの伝えたかった核心部分が今回の箇所ではっきりと示されているということだ。

 また、シメオンの賛歌で参照されているイザヤ49:6もものすごい。こんなことが旧約預言にこんなにはっきりと明らかに記されているのかと驚いた。そこには、「主は言われる。『あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルの内の残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。私はあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする』(イザヤ49:6)」と言われており、メシアがイスラエルだけでなく、異邦人を含めた全世界に救いをもたらすと、はっきりと書いてある。この箇所はユダヤ教の伝統ではどのように解釈されているのだろうか。非常に気になるところである。

 ヨセフとマリアは語られた内容に非常に驚いたが、それは天使の告知以上の内容が語られたからだ。自分に生まれた子どもが、そのような歴史を大きく動かすことになると知らされたら一体どんな気分になるだろう。ただでさえ、生まれる前に天使が現れ、処女懐胎という信じられないことが起きていたにもかかわらず、シメオンの賛歌に対してもさらに驚いたということなのだから、ダビデの王位が建て直される以上に諸国民が救われるということが、当時のユダヤ人の旧約預言理解においては衝撃的な内容だったということだろう。

 

 メッセージで語られた「真理は人々を二分する」というのも、非常に重い言葉だ。イエスは「イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められているます(ルカ2:34)」とシメオンは預言するが、平和をもたらすためではなく剣をもたらすためにやってきた、というイエスののちの言葉そのままだ。イエスに対する態度は、その人の心の内を明らかにする。罪の下にいるままのひとは、イエスに反対せずにはおれないのだ。

 

 シメオンは「正しい、敬虔な人」だったが、これは旧約的な意味での義人であることを指している。また、「聖霊が彼の上におられた」というのは、旧約的な意味での聖霊による支配を意味している。彼は、完全に旧約時代の預言者の系譜に連なる人物であり、イスラエルの残れる者、レムナントの一人だ。

 このルカの福音書1〜2章は、非常に旧約聖書的な雰囲気を残している。いわばイエスが登場するまでの、旧約時代から新約時代への移行の記録だと言える(厳密には、新しい契約が締結されるのは、イエスの十字架の死によってである)。

 この旧約的雰囲気の中で、シメオンが「あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、見民イスラエルの栄光を。(ルカ2:31〜32)」と語った。異邦人の救いは初臨のメシアの働きであり、イスラエルの救いは再臨のメシアの働きである。そのことはこの時点では誰も知らないことだが、預言としてシメオンが語っていることは大きな意味があると思う。

【感想】創世記(32)—イシュマエルの追放—

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 今回は創世記21:8~34までです。

ここまでの文脈

 アブラハム契約の条項の中には子孫の約束があったが、アブラハムが100歳の時に、サラがイサクを産む。しかし、この時すでに、アブラハムには女奴隷ハガルが産んだイシュマエルがいた。

今回の聖書箇所を要約すると

  • イサクの乳離れの宴会のあと、ハガルとイシュマエルはアブラハム一家から追放される。
  • 2人は荒野で道に迷い死にかけるが、神に助けられ、イシュマエルは大いなる国民となると神から約束される。
  • アブラハムは、アビメレクと契約を結ぶとともに、ゲラルの地に定住することを決意する。

感想・気づき

 アブラハムがサラから、ハガルとイシュマエルを追放するよう迫られた時、アブラハムは「非常に悩んだ」。アブラハムにとってイシュマエルは高齢になって生まれた初めての子だったので、特に愛していただろう。

 また、当時の法律(ヌジ法典、ハムラビ法典)では、後から生まれた正妻の子は先に生まれた妾の子よりも優先して相続人となることと、そうした場合は先に生まれた妾の子は追放してはならないとされていた。つまり、イサクを跡取りとすることは合法的だが、だからといってイシュマエルを追放することは違法だったのだ。

 しかし、神はアブラハムに、サラの言うようにして、二人を追放するよう命じる。法律違反だとしても、神の介入があったのでアブラハムは追放に踏み切ることができたのだろう。

 

 神はイシュマエルについても「あの子を大いなる国民とする(創21:18)」と約束している。神はアブラハム契約の祝福をイシュマエルにも与えると言われたのだ。イシュマエルはアラブ民族の祖であることを考えると、この神の約束は非常に意義深いように思える。

 しかし、イシュマエルは「弓を射る者となった(創21:20)」。この表現は創世記10章に登場するニムロデを想起させるもので、創世記においては否定的な言葉だ。神の祝福の直後にこのような言葉がでてくるのもまた面白い。

 なお、ガラテヤ4:21〜31では、ハガルによって子を得る道を「業による救い」の型として、ラビ的ユダヤ教を説明しており、サラによって子を得る道は「信仰と恵みのよる救い」の型として、イエス・キリストを信じて救われる道を説明している。

 イシュマエルは「業による救い」の型として描かれているが、しかしそれでもイシュマエルはアブラハム契約の祝福に与っている。この辺りの感覚もまたとても面白い。

 

 アビメレクはアブラハムと平和契約を結ぶ。これはアブラハム都市国家の王ですも、脅威を感じるほどに勢力を増していたということだ。アビメレクは彼が神から祝福されていることを認めていたが、過去に一度サラのことで騙されているので、裏切らないように契約を結んでほしいとアブラハムに頼む。

 そして、アブラハムがこの地(ベエル・シェバ)に木を植える。「柳の木」と書かれているが、これはギョリュウ(タマリスク)のこと。これはアブラハムの定住の意思を示しており、ベエル・シェバはアブラハムとイサクの時代の活動の中心地となる。