ナザレの出来事はイスラエル全体に起きる【感想・備忘録】ルカの福音書(17)ナザレでの伝道4:14~30

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ここまでの文脈

 イエスは、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受け、その際天から聖霊が下った。そして、聖霊はイエスを荒野に導かれて、悪魔の試みに遭わされた。イエス聖霊の力によって、悪魔の試みに勝利し、伝道活動を開始する。

 また、ガリラヤでの伝道には、メシア性を証明することと、弟子たちを招くこととの2つの目的があった。

今回の聖書箇所を要約すると

  • エスガリラヤ一体で伝道を始め、人々から好意的に迎えられた。
  • ある時、イエスはナザレの会堂で、自身のメシア宣言と異邦人が救いに招かれることとを語った。
  • メッセージの内容に怒った人々はイエスを崖から突き落として殺そうとするが、イエスは難を逃れ、ナザレを去っていった。

感想・備忘録

 ルカ4:14で「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」が、これは御霊=聖霊の力によってガリラヤ伝道を始められたことを示している。本来神であるイエス聖霊の力がなくとも、自身の神性により全てのことを行うことができたはずだが、敢えて無力な一人の人間として、聖霊の力に自らを委ねられたと考えられる。

 クリスチャンとしては、ここから教訓を学ぶことができるだろう。自分自身の力ではなく、内に宿る聖霊に委ねてことを始めるべきだ。この聖霊の力による伝道というモチーフは、ルカの福音書の続編である、使徒の働きにおいても継続される。今度はイエスご自身ではなく、12弟子たちがイエスと同じように聖霊の力に動かされて伝道をすることになる。

 

 イエスは、ナザレの会堂でイザヤ書を朗読し、メッセージを語ったが、これはこの会堂の会堂管理者の判断で行われたものだろう。

 当時の会堂では、トーラーの朗読、預言書の朗読、奨励(説教)という順番が一般的だったが、朗読も奨励も会堂管理者の判断のもとに行われていたからだ。トーラーの朗読は毎週の朗読箇所が事前に決まっており、預言書はその週のトーラーの朗読箇所に関連する箇所が読まれることになっていた。

 イエスイザヤ書61:1〜2aを読まれた。この箇所はメシア預言として理解されていたが、これがこの週の朗読箇所だったのか、イエスが別に選んで読んだのかはわからない。この箇所を読んで、イエスは自身がこの預言の成就であると言われた・

 この箇所はメシア預言であるが、イエスイザヤ書61:2b「われらの神の復讐の日を告げ、」という部分は読まなかった。実はイザヤ書61:1〜2aは初臨のメシアのことを、2bは再臨のメシアのことを預言しているからだ。しかも、この再臨の預言は患難期の預言である。しかし、当時ローマの圧政に苦しんでいたユダヤ人は、メシアの到来とメシア的王国の成就を熱望しており、「神の復讐の日」とはローマに対するものだと解釈していた。

 だから、イエスがこのイザヤ書61:2bを読まなかったことは、ナザレの人々にとっても不満の残ることだった。その上、イエスは救いがユダヤ人ではなく、異邦人にもたらされることを示唆する箇所を旧約聖書から引用した。だから、人々は怒りに駆られてイエスを殺そうとした。

 

 ルカはイエスの公生涯の伝道活動の初めにこのナザレの出来事を書いているが、これはナザレで起こったことは、イスラエル全体でも起こるということを示唆している。ナザレは2度もイエスを拒否する。そして、「突き落としの崖」事件は、イエスの死を予感させるものだ。これらはルカは、ユダヤ人によるメシアの拒否と、そこから異邦人が救いへ招かれることをテーマにしているためだ。