【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(7)山上の垂訓(3)
聖書の言葉をあなたへ ハーベスト・タイム・ミニストリーズというサイトで無料で聞くことができる、聖書の講解メッセージの感想を書いています。
今回のメッセージはここで聞けます(2007年11月12日)→
©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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メッセージのアウトラインはこちら。
今回はマタイの福音書第7章です。
ここまでの文脈
イエスによる「山上の垂訓」が続いている。
「山上の垂訓」の本質は、「メシアによる義の解釈」である。パリサイ人の口伝律法(先祖たちの言い伝え)を否定し、正しい律法解釈を弟子たちに教えている。
今回の聖書箇所を要約すると
- 7章12節までは、6章の続きで律法の義の実践を教えており、口伝律法を否定し、祈りの重要性と信者の行動規範を教えている。
- 7章13節以降は、4つの対比を通して「山上の垂訓」を締めくくる。
- 「山上の垂訓」の結論は、イエスのことばを信じ、そのとおりに行動しなさいということ。
感想・気づき
「さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7:1)」とは、人間の言い伝えに過ぎない口伝律法によって裁いてはいけませんよという意味。イエスは口伝律法に価値を見ないので、当然の結論だ。文脈から判断しても、口伝律法の無益さを言っており、一点一画でも決してすたれることはない律法(聖書に基づく)のことを言っているのではないし、いかなる場合でも争ってはいけないと言っているのでもない。
マタイの福音書18:15〜17では、教会内で問題が起きたときの対処法が語られており、罪に対する「裁き方」が説明されている。このことからもマタイ7:1が、全ての場合を指しているのではないことがわかる。
現代の教会でも、酒を飲んではいけない等の現代の口伝律法があるが、そういうものはあまり意味がないので、それらをもとに裁いてはいけないということだ。
「求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ7:7)」では、何が与えられるのかについての解説はなかった。しかし、文脈から考えて「真珠(=神の福音)」、「聖なるもの(=神に属するもの)」のことだろう。
神の福音についてはわかるとして、どういったものが「聖なるもの」「神に属するもの」と言えるのだろうか。たぶん同じものを求めてもケース・バイ・ケースなのだろうな。求める動機やその人の内面は、本人自身でもわからないこともあるし、神のみぞしることだろうから。
偽預言者の見分け方について、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます(マタイ7:17)」また、「実によって彼らを見分けることができる(マタイ7:20)」。
これは、神に対する信仰があれば、良い行動が結果として現れるということを言っている。ヤコブの手紙でも、行いのない信仰は死んでいると言っていることだと思う。
たまに牧師でも勘違いしている人がいるが、ヤコブの手紙の該当箇所は業による救いを言っているのではない。「信仰があり救われている→良い行いをする」と言っているのであって、「良い行いをする→救われている」ではない。逆は真ならずの典型例だと思う。
しかし、その実(=行動)によって見分けられるとイエスは言っているので、神の目から見て本質的に良い行いというのは、救われていなければできないということだろうか。その点はよくわからない。