【感想】創世記(17)—ノアの失敗—
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今回のメッセージはここで聞けます(2008年10月6日)→
©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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このメッセージのアウトラインはこちら。
今回は創世記9:18~29までです。
ここまでの文脈
創世記は11の区分(トルドット)があり、今見てる第3のトルドットは「ノアの歴史」。ノアとその一家は、箱舟を作り大洪水を生き延びた。箱舟を出た後、ノアは神とノア契約を結んだ。
ノアは、全人類の代表としてノア契約を結んだ。これはエデン契約、アダム契約に続く第3の契約であり、そのしるしは虹であった。ノアは全人類の代表だったという意味で第2のアダムということができる。
今回の聖書箇所を要約すると
- 全人類は、ノアの三人の息子・セム、ハム、ヤペテから別れ出るようになる。
- ノアはぶどう酒に酔って裸になったが、ハムはそれを見て、他の兄弟に言い広めたの対して、セムとヤペテは父の裸を見ないようにしながら、服で裸を覆った。
- 酔いから覚めたノアは、ハムとその息子カナンとを呪い、セムとヤペテとを祝福する。
感想・気づき
ノアはぶどう畑の農夫になり、「ぶどう酒を飲んで酔い、・・・裸になっていた(創9:21)」。ここで、ぶどう酒を作ることも飲むことも罪ではない。酒を飲んで酔ったことが罪なのだ。酔わない程度(理性的判断ができる程度)に飲酒することは罪ではない。「酒に酔ってはいけません(エペソ5:18)」と書かれているとおりです。
もし、飲酒そのものが罪ならば、イエスは少なくとも数回罪を犯したことになる。しかし、イエスは人間であるにも関わらず、罪を一切犯さず、モーセの律法を完全に守ったから、犠牲の子羊としての資格があったといえるので、飲酒が罪であることはあり得ない。
日本人の場合は、アルコールに弱い人が多いので、少し飲んでも酔っていしまう場合は、そもそも飲まない方がいい場合もあるだろう。また、文化的に泥酔することに対して寛容であるし、酔っぱらうまで飲まないのは周りの空気に合わせていないと思われてしまう、というような場面もあり得る。また、路上で飲酒して、酔って寝込んでしまうというようなことは、聖書的には完全に罪になるだろう。
また、酒に酔うことと、裸になることが関連付けて聖書で語られることが多いという解説は面白かった。酔って騒いで裸になるというのは万国共通なのかと思った。日本でもそうなりがちではと思う。
「ハムは父の裸を見て、外にいる兄弟に告げた(創9:22)」。一方で、セムとヤペテとは、ノアの裸を見ないようにして、着物で裸を覆った。この箇所はハムの人格・性質を描写している。ハムはまずノアの裸を服などで覆うべきであったし、ノアが酒に酔ったことを、他の者には言わずに直接いさめるべきだった。新約聖書でも「あなたの兄弟が罪を犯したなら・・・ふたりだけのところで責めなさい(マタイ18:15)」と言われている。また、ここでハムがノアの裸を「見て」という言葉は、原語においては性的なニュアンスを含むと解説されていた。ハムの息子のカナンは、後のカナン人の始祖であるが、その性質がこの時点で備わっていたということだ。
また、ノアが呪う際、「のろわれよ。カナン。(創9:25)」と言っているが、カナンはハムの息子なので、ハム自身が呪われているのと同じであるという。また、カナンは父と共に同じように行動したか、同じような性質を持っていたことを示唆しているとも解釈できる。
ノアの呪いのとおり、カナン人はⅠ列9:20~21において、イスラエル人(セムの子孫)の奴隷となっている。さらに、その子孫のフェニキア人は、ペルシヤ人、ギリシア人、ローマ人(ヤペテの子孫)の奴隷になったいる。そして、ポエニ戦争でカルタゴが滅ぼされた際に、カナン人とその子孫は歴史から姿を消す。
この箇所が、ハムの行動とセム・ヤペテの行動とが対比されているということに初めて気が付いた。解説を聞くと、なるほどと思うし、もうそのようにしか読めなくなる。今までは何を考えて読んでいたんだろうとさえ感じる。