【感想】創世記(10)—レメクとセツ—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年8月10日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回は創世記4:17~26までです。

ここまでの文脈

 創世記には11の区分(トルドット)がある。そして、今回で創世記2:4から始まった第1のトルドットが終了する。

 人類の創造に始まり、アダムの堕落、エデンの園からの追放、カインとアベルのエピソードがあった。そして、カインはエデンの東、「ノデの地」に住み始める。

今回のメッセージを要約すると

  • カインから始まる家系は、神に背を向けて生きる人々は、レメクの代に至り、益々悪化の一途をたどる。
  • セツの家系は、神と共に生きる人々で、第2トルドット以降に詳しく見ていく。
  • 全ての人は、カインの道かセツの道かのどちらかを選んで生きている。

感想・気づき

 カインは神から「地をさすらえ」と宣告されたのにも関わらず、町を建てて定住し、神の命令をすぐに破る。そして、レメクの子どもたちである、ヤバル、ユバル、トバル・カイン(3人とも”作る出す人”という語源を持つ名前)はそれぞれ遊牧、楽器演奏者、鍛冶屋の始祖となった。これらは第1次産業、第3次産業、第2次産業の始祖でもあるとも解釈されている。

 都市生活や遊牧生活、また文字を書き詩を作る能力も、レメクとその子供たちから始まっている。これらの文明や文化は、神から背を向けて生き、神の守りに頼るのではなく、自分で自分を守ろうとする努力から生まれたともいえる。町や都市は、神に敵対する文化が育つ場所だ、とも解説されている。

 となると、例えば東京などでの都市生活や、文化的なことや思想的なことにあこがれを持つことは、クリスチャンにとってどういう意味を持つのだろうか。

 今回の聖書箇所と解説からは、産業や文化は全てレメクから生まれていることになる。とすると、気を付けないと、それらには神から離れていってしまう性質がある、ということだろうか。また、それらを「正しく」運用管理できれば、神と共に生きつつ、それらの果実を享受することはできるのだろうか。それとも、都市生活の利便性を享受しつつ、セツの道を指向するのは矛盾なのだろうか。

 

 セツの子エノシュは、「朽ちる人」という意味をもつ名前だ。人の人生は、はかなく虚しいことを示唆している。詩編103:15で「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。」というこの「人」は原文では「エノシュ」となっている。この人間の虚しさに自覚的になった時に、決して滅びない永遠の存在である神に対する信仰が湧いてくる。エノシュの時代から、神に対して定期的に公に礼拝することが始まる。

 今回のメッセージでは、各登場人物の名前の意味を解説していたが、この「朽ちる人」というのは、特に身に染みた。人に限らず、全ては虚しく諸行無常だ。しかし、そこで一切は無、とはならす、天の父なる神がいると見上げることができるのがキリスト教だ。神への信仰なしに、虚無と向き合うのは非常に恐ろしいことで、人間には無理なことだと思う。