【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(23)
聖書の言葉をあなたへ ハーベスト・タイム・ミニストリーズというサイトで無料で聞くことができる、聖書の講解メッセージの感想を書いています。
今回のメッセージはここで聞けます(2008年3月24日)→
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今回はマタイの福音書22:41~23:39までです。
ここまでの文脈
第21章と第22章では、イエスは4つのグループから挑戦を受け、神の子羊としての吟味を受けた。そして、傷もしみもないことが証明された(cf. 出エジプト12:3~7)。
今回の第23章では、イエスがユダヤ人の指導者たちに対して反撃をする。
今回のメッセージを要約すると
- イエスは、パリサイ人に対する質問を通して、キリストの神性を認めないというパリサイ派の神学の欠陥を指摘する。
- イエスは、旧約聖書に登場する預言者たちと同じように、イスラエルの宗教的指導者(パリサイ人)を糾弾する。
- 最後に、自身の公生涯のまとめを語り、エルサレムの崩壊と将来の再臨及びその条件を預言する。
感想・気づき
キリスト教は「聖書的ユダヤ教」なんだ、という解説が、クリスチャンの信仰と聖書理解にとって決定的に重要だと思った。
マタイ22:41~46で、「ダビデの子」はキリストの人性、ダビデが詩編でキリストに呼びかけた「私の主」はキリストの神性を示している。パリサイ派神学では、キリストの神性を認めておらず、あくまでダビデの子として、人間として現れ政治的にユダヤ人を救うと考えていた。だから、この箇所でのイエスの質問に黙するしかなかった。
これはもう新約聖書だけ読んでいては、一生理解することができない世界だなと思う。そして、パリサイ派の「ラビ的ユダヤ教」の理解ではなく、イエスの教える「聖書的ユダヤ教」の理解によると新旧約聖書が一体のものとして、矛盾なく理解できそうな気がする。
また、マタイ23:2で言及される「モーセの座」というのも、実際に当時のユダヤ教の会堂にあった椅子のことで、そこに座って様々な争いごとの裁判をした。インターネットで検索してみればわかることではあるものの、なんとなくレトリックとして理解していたので、急に具体的なものとして理解が深まった。
当時のラビの弟子に対する絶対的な権威というのは、カルト宗教そのものだなと思った。そして、私自身の経験から、現代の日本の教会においても、似たような権威を振るう牧師がいるな、とも思った。
マタイ23:7に出てくる「先生」という語は、原語は「ラビ」であると、新改訳聖書(今手元で見ているのは第2版)の注釈には書いてあります。マタイ23:8~11に出てくる「先生」、「父」、「師」というのは全て当時使われていたラビを指す言葉です。ラビは弟子の結婚や職業選択に関しても決定権を持っており、肉親の父よりもラビを優先的に助けるものとされていた。現在ならば、完全にカルト教団の教えである。
マタイ23:38~39の預言については、今までのメッセージを聞いていると、すんなりと内容が理解できる。それにしても、この38節と39節の間には2000年以上の時間的隔たりがあるんだなぁ。そして、この39節の預言が反ユダヤ主義の原因となっているとは。