【感想】30日でわかる聖書 マタイの福音書(17)
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今回のメッセージはここで聞けます(2008年2月4日)→
メッセージのアウトラインはこちら。
今回はマタイの福音書17:1~17:23までです。
ここまでの文脈
イエスの公生涯の最後の年に差し掛かっている。
前の章に引き続き、マタイ第17章も弟子訓練のピークである。メシア性を拒否されたイエスは、使徒行伝の時代に備えて弟子たちを訓練している。
山頂での祝福と山麓での論争、メシアの初臨における受難と再臨におけるメシア的王国の確立という2つの対比がマタイ第17章では描かれている。
今回のメッセージを要約すると
- ヘルモン山の山頂でのイエスの変貌を通して、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は千年王国(=メシア的王国)の予表を体験する一方で、山麓では弟子たちが悪霊の追い出しがうまくできずに汲々としていた。
- 山頂で現れたモーセとエリヤは旧約聖書全体の代表であるとともに、モーセは死から復活する聖徒の代表であり、エリヤは携挙によって死なずに天に挙げらえる聖徒の代表である。
- 山頂での祝福と山麓での苦闘はクリスチャン生活の二面性を表している。
感想・気づき
イエスの変貌に関するユダヤ的解釈がすごい。完全に腑に落ちた。
過去に教会で聞いた説教では、ペテロは驚いて自分でも何を言っているのかわからなかったというもので、今回のメッセージ語られていた異邦人による解釈の典型だった。だから、この箇所については「なんのこっちゃ?」という感じでよく意味がわからなかった。
ペテロが3つの幕屋を建てようと提案しているのは、仮庵の祭りを祝いましょうという意味だ。イエスから神の栄光の輝き(シャカイナグローリー)が発せられ、死者であるモーセが復活し、エリヤが帰ってきたので、ペテロはメシア的王国が実現したと勘違いしてしまった。仮庵の祭りはメシア的王国を予表するもの(ゼカリヤ14:16~18)としてユダヤ人には理解されているので、ペテロは幕屋の提案をした。しかし、過ぎ越しの祭りが予表しているイエスの受難がまだ起きていないので、このペテロの提案は時期尚早だった。
完全に話の筋が通るし、納得しかない。イエスは肉体という幕屋に普段はさえぎられているシャカイナグローリーを一旦は輝かせるものの、モーセとエリヤと自身の受難の最期の話をされたのち(ルカ9:31)元の姿に戻り、十字架の死に向かうために人間の肉体という幕屋をまとって再びへりくだったのだ。
この章でイエスはメシアの受難について再び弟子たちに教えるが、弟子たちが全く理解できずに途方に暮れる描写が共感できる。
他人にその人が全く経験したことがなくて、考えたこともなかったようなことを教える場合、数回言った程度ではまさにこの弟子たちのような状態だ。職場で後輩を指導する時に、こんな感じの反応で実際の業務でもミスするので、怒って怒鳴ってしまうことを繰り返していた頃の自分を思い出した。
イエスのように怒らず粘り強く何度も何度も教えるのが正解だったのだろうけど、当時の私にはできなかったなぁと反省しかない。その後輩に対しても悪いことを随分してしまったと思う。
この章の山頂での出来事と山麓での出来事との対比は、絵画的でコントラストが高く感じられた。神の栄光が光り輝くイエスとパリサイ人たちと論争しうろたえている弟子たち(マルコ9:14)は、メッセージで語られた通り、現代のクリスチャン生活の二面性をそのまま表している。教会での礼拝や個人的な祈りの中で祝福を体験し、日常生活では様々なストレスや葛藤に悩み苦しむ。
信仰を持つと何かすぐに成功を掴めるとか、悩みがなくなるとか、そんなご利益があるわけではない。周囲と価値観がずれてしまうことになるので、むしろ悩みや葛藤が増えるのだ。周りに合わせる方が楽に生きられるが、クリスチャンはそうではない生き方を選択している。この章の対比はそのことをはっきりと思い起こさせてくれる。