【感想】創世記(6)—エデンの園に置かれた人—

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 今回のメッセージはここで聞けます(2008年7月14日)→

©️ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
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 今回は創世記2:4b~2:25までです。

ここまでの文脈

 サタンの堕落によって世界はカオスとなったが、創造の7日間の神の業を通して、世界は回復された。この創世記1:1~2:3までは創世記全体のイントロダクションになっている。

 創世記2:4からは、全部で11あるトルドットの最初のものが始まる。このトルドットの初めは、創造の第6日目の出来事を再記述している。

今回のメッセージを要約すると

  • 神は土地のちりから人を作り、エデンの東に園を設けた。
  • 神は人とエデン契約を結び、人がエデンの園を耕し、管理するようにされた。
  • 神は人の助け手として、女を作り、人間を完成させた。

感想・気づき

 「土地のちり」はヘブライ語で「アダマ―」で、そこから「アダム」を使ったという言葉遊びがあり、イシュ(男)からイシャー(女)が作られたというのも、ヘブライ語の名詞の男性形・女性形の変化であるとのこと。このほかにも創世記には、原典のヘブライ語でなければ意味が通らない言葉遊び的な表現がたくさん出てくるらしい。また、人は創造されてすぐに、動物に名前を付けていた。これらのことから、人は創造されてすぐにヘブライ語を話していた。

 

 また、人は「土地のちり」から作られており、肉体は自然界の一部である。一方で、神から「いのちの息」を吹き込まれたので、「神のかたち」となり崇高な存在になった。「地のちりに過ぎない」という謙遜さと、「神のかたちである」という自己認識とのバランスが大事であると解説されていたが、まさにその通りだなと思った。

 この「地のちりに過ぎない」ということを認識している人は、信仰の有無を問わずたくさんいるように思うが、「神のかたちである」という自己認識は、聖書信仰がなければ持ちえないだろう。自分が何らかの努力によって神のようになる、というのではなく、初めからすでに「神の似姿」であるという。この圧倒的な自己肯定感はとても重要だと思う。

 

 女を「助け手」として作った、という時の「助け手」の原語はヘブライ語の「エゼル」で、これは否定的な意味や何かと比べ価値が低いことを示唆するものでもない。むしろ、神ご自身を指す言葉としても使われている(cf. 出エジプト18:4に出てくる「エリエゼル」という名前)。アダムの堕落以前の男女関係には、支配関係や上下関係はなかった。

 アダムの妻である女は、「神が人を助けるように、アダムを助ける」ことを含意しているということだろうか。これは夫婦関係について色々考えさせられる。この「助け手」という言葉を聞いて女性が抵抗感じるのは、だいたいにおいて男性の側に問題があるからだというメッセージも、聞いていて非常に重いものがある。

 「夫も自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。(エペソ6:28)」とあるのもその通りで、まさにアダムが「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉(創世記2:23)」と言った通りである。このアダムの発言は女に対して語った契約の言葉であると解説されていた。女は「助け手」となり、男は「自分の体のように愛する」。非常に前時代的で保守的な感じがするが、これが神の教えなのだなぁ。そして、自分の事としては妻に対して反省しかない。